通訳〜日本語と英語と手話と

通訳者の役割

ライオンズゲートブリッジ
ライオンズゲートブリッジ
(手前の両脇にライオンが鎮座)

ボストンを訪れたときには、日本にいる時以上に耳のきこえない自分について強く意識させられ考えさせられたのだけれど、今回は同伴の妻が通訳してくれるおかげで周囲の人たちとコミュニケーションができて随分と助けられている。「通訳」といっても、英語と日本語間のそれではなく、きこえない僕に日本語の情報を手話で(ときに筆談で)提供してくれる伝達者。とりわけ大切な役割なのが、単なる情報の通訳者としてでない、そこに人がいる時の、第2人称である目の前の相手との人間関係を築くこととなる会話の橋渡し役だ。

旅に出かけて人と出会わないことはない。一人でいると、でくのぼうのように表情もなくただ突っ立っているしかできない僕が、通訳者がそこにいてくれれば人間性を取り戻すことができる。コミュニケーションによって相手を知ること、そして自分を知ってもらうことができる。それはとても素敵なことだ。


通訳者と主体性

シェラトン・ウォール・センターホテル
シェラトン・ウォールセンターホテル

ただ、そうはいっても、妻は通訳としてだけ存在するのではない。妻は妻で一人の主体性をもった人間である。このテーマはずっと「音のない世界で」で述べてみようと思っていたのだけれど、単に自分のおかれている状況において近くにいる人の好意に甘えて通訳してもらえるときと、きちんとした通訳を手配してお願いする時とでは、僕たちろう者のとるべき姿勢というものも区別されることになる。依頼されてやってきた通訳者は通訳に徹することが任務であるのに対し、専任の通訳者を雇っているのでない限り──圧倒的にこのケースが多いのだが──日常的にろう者は、「通訳してもらえるかもしれない」という偶然の幸運に依存せざるを得ず、それ以上のことを要求することができない。

妻のおかげで僕は会話に加わることができる、コミュニケーションできる恩恵を受けているけれども、妻も通訳としての任務ではなく、それ以前にその場にいる一人の人間として会話に参加している。こういったとき、少し困ることも場合によっては起こってくる。妻は相手の言葉を通訳するとともに、自分の発言についても僕に伝えてくれることになるのだが、僕にとっては、その通訳されている内容が相手の言葉であるのか、それとも妻の言葉であるのかが判別しがたいこともある。受け取る側が混乱してしまうのだ。これはきちんとした職業としての通訳者が行う時でさえも難しいのだという。


日本語と英語と手話と

2人の門出を祝して(St.Andrews-Wesley Church)
2人の門出を祝して
(St.Andrews-Wesley Church)

今回は加えて、場所が海外である。日本にいて母国語を通訳する時でさえ難しいことであるから、外国語を伝達するのはもっと難しい。

妻は英語が得意とはいえない。それでもホテルのフロントで、食事をするための、また、ショッピングのための店で、何かをたずねられた時、精一杯相手の英語を聞き取って、分かる範囲の単語を僕に伝えてくれる。そして、妻よりはちょっとだけ英語のできる僕が、そのわずかばかり与えられた単語をもとにして必死に解読することになる。大変な作業だ。こちらが知りたいときには、たずねるだけは僕がたずねる。この場合には、僕が妻に「これこれしかじかのことをきくから・・・」と日本語で伝えてから、相手のANSWERを待つ。妻がきく。分かった単語(というより、日本語の音節としてきこえる言葉)を指文字で一語ずつ僕に伝える。僕が単語を推測する・・・。

随分と手間のかかることである。2人がかりの共同作業である。どうしても分からないこともあるし、何とか分かることもある。分かれば嬉しい。分かり合えて嬉しいと思うことがコミュニケーションだ。今回の旅は妻にとっては随分、疲れたろうと思う。


 

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