チロルの英雄アンドレアス・ホーファー

チロル独立に蜂起

ゴールデナー・アドラーからイン川に抜けたところに建つのがアンドレアス・ホーファーの銅像。ガイドブックには出て来ないが、マクシミリアン1世とともにチロルでは英雄視されている人物。

ナポレオンのドイツ遠征によりチロルはバイエルンに割譲された。このバイエルンの支配が苛烈だったことからレジスタンス運動の先頭に立ったのが農民のアンドレアス・ホーファー。1809年復活祭の日に蜂起してバイエルン軍を撃破した。ナポレオンのフランス軍派遣にも屈しなかった農民軍に欧州諸国は驚嘆し、英国詩人ワーズワースにもうたわれた。

アンドレアス・ホーファー(Andreas Hofer)の銅像
アンドレアス・ホーファー(Andreas Hofer)の銅像

ホーファーの銅像はインスブルックにいくつかあるようなのだけれど、上の写真はイン川沿いに建つもの。右側の建物が朝陽を遮って写りは今ひとつ暗くなってしまった。Wikipediaによるとイン川におがくずの袋を流したのが蜂起の合図だったという、それにちなんだ構図なのだろうか。

Andreas Hofer - Wikipedia, the free encyclopedia

郷土意識の強いチロル、ゼーフェルトにも

3度にわたる執拗なナポレオン軍に敗れて処刑されたものの、チロル人を率いて勇敢にチロル独立のために戦ったアンドレアス・ホーファーは「チロルの英雄」として称えられている。「チロル人にあらずばオーストリア人にあらず」というほど郷土意識の強いチロルのシンボルであり、ホーファーの歌はチロル州歌にもなっている。

ゼーフェルトではオリンピア通り(Olmpia Strasse)に連なり東のロスヒュッテ・ケーブルカーに向かう通りがアンドレアス・ホーファー通り(Andreas Hofer Strasse)と名付けられているほど。この通りの途中には彼の名を冠したペンションも建っており、国旗を持つ彼の姿がファサードとして描かれている。

Pension Andreas Hofer
ゼーフェルトではペンションにも Andreas Hofer

チロルの歴史

他にチロルゆかりの人物で画像に収められたのはボーツナー広場(Bozner Platz)のルドルフの噴水(Rudolfs-brunnen)。

元々の領主であったチロル伯に直系男子が途絶えたことから、チロル女伯マルガレーテ・マウルタシュが1363年、領地をハプスブルク家に移譲した。噴水はチロルのオーストリア帰属500周年を記念して1877年に建設されたもので、建設公と呼ばれたハプスブルク家のルドルフ4世にチロル伯領が贈与された史実を表している。

Rudolfs-brunnen
ボーツナー広場(Bozner Platz)のルドルフの噴水(Rudolfs-brunnen)

 

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 comment
  1. 服部達雄 より:

    アンドレアス・ホーファーについて興味深く拝見しました。
    実は、昨日トリエステから南チロルまでのイタリア旅行から帰ってきたところです。
    メラーノ(Meran)から400m標高を登った南に面した丘陵にあるペンションに宿泊したのですが、そこの若主人に案内され、インスブルックに続く谷あいを進んだところにあるホーファー記念館に行ってきました。
    野外博物館の体をなし、当時の村の建物などが復元されており、その中にホーファーの活躍を示す記念館がありました。特に面白かったのは、英語とドイツ語によるホーファー・アニメ物語でした。ドイツ語が十分に理解できなかったため、おが屑を決起の合図にしたかどうかは確認できませんでしたが、ナポレオン軍に抵抗するチロルの人々がリアルに描かれていました。ホーファー自身はパドヴァで処刑されたそうです。
    チロル人の郷土意識の強さ、ホーファーに対する誇りの強さ―。若主人は「私の両親は、ホーファーから数えて5世代目、私は6世代目」と語っていました。

  2. より:

    服部様、はじめまして。
    拙い内容のページをご覧いただいた上にコメントまでいただき、ありがとうございます。
    チロル自体が日本でのガイドや情報の少ない地ですが、行ってみると非常に見がい、知りがいのある楽しい場所でした。
    オーストリア、というよりチロルという国の、オーストリア本国やハプスブルク家との関係、またドイツ、フランス、イタリア・・・といった周辺国との関係も、ホーファーも、全て行ってから、帰ってから知った次第です。
    ナポレオンに対してのホーファーがチロルの人々にとって英雄であり、誇りである件は私も特に興味を覚えました。
    途中にも記しましたが、チロルの庶民的なペンションの多さにも魅了されました。本当に郷土愛の伝わってくる地域でしたね。
    wikiもドイツ語の方がやはり、英語ページより情報が圧倒的ですね。
    Andreas Hofer – Wikipedia
    http://de.wikipedia.org/wiki/Andreas_Hofer
    私もここ3年、旅行した先がスイス、チェコ、チロルと皆、ドイツ語圏だったこともあり、英語以上にドイツ語が分かればもっと楽しめるのに・・・と痛感させられました。
    もう一度、勉強したいと思っているところです。

  3. hattori より:

    羊さん
    早々にレスありがとうございます。
    ホーファー記念館の所在地は彼の生誕地、
    st.Leonhard in Passeier
    http://www.museum.passeier.it
    今回のメラーノ訪問はドイツ人の友人の勧めによるものでしたが、チロルの歴史と風土に接することができたのは大きな収穫でした。
    ご承知のようにメラーノ自体はイタリアですが、標識はドイツ語→イタリア語の順番で示され、人々の会話はドイツ語(かなり訛った)で、ここがイタリアとは到底思えませんでした。
    ペンションの若主人に自分たちのアイデンティティはどこにあるのか尋ねたところ、イタリアでもオーストリア(ドイツ)でもなく、あえて言えばスイスと言っていました。
    このあたりの感覚は日本人には理解しにくいところでしょう。チロルに限らずフランス、オーストリアなど列強の周辺地域は複雑な歴史を辿っていますね。
    チロルにしてもナポレオン軍に抵抗しただけでなく、ハプスブルグ・オーストリアに対しても反発するところがあったと思います。それでもなお、メラーノの公園にはシシイの銅像が立ち、人々の敬愛を集めているようです。

  4. より:

    hattori 様、いろいろと教えていただき、ありがとうございます。
    メラノのご主人のアイデンティティの話は考えさせられました。
    チロルの人にオーストリアという国の意識が希薄な上に、南チロルのメラノは歴史的経緯からもさらに複雑な点を抱えているのでしょうか。
    チロルの歴史を語るなら発祥の地、メラーノからひもとく必要があるのですが、このページの最後の部分が、そこを端折って「1363年、領地をハプスブルク家に移譲した・・・」にしてるのは大切なところを欠いていますね。
    おっしゃるとおり、そのあたりも含めて民族、人々のアイデンティティに影響を及ぼすでしょうし、史実を知ると旅を終えた後々でも楽しさが増します。
    日本の世界史には出て来ないホーファーもキッツビュールやメラノや・・・にも銅像があり、彼を追いかけるだけでも、そこから面白い旅ができそうです。
    マリア・テレジア、アントワネット、エリザベート・・・やナポレオンといったメジャーな側からの歴史には見えてこない面白さがありますね。
    このページのゼーフェルトにある通りは、そうするとイタリアからチロルを通過しドイツまで続いていることになるのかな? とまた興味をそそられました。
    私もゼルデンまでは行きましたが、南チロルに足を伸ばせなかったのは残念です。
    夏休みにしか旅行したことがないのですが、一帯は、秋やスキーなどこれからがシーズンの冬ももっといいでしょうね。

  5. hattori より:

    羊さん。
    間違いなく私よりお若い方と存じますのでお許しください。
    見識の高さ、守備範囲の広さに敬服しております。ご指摘のとおり、オーストリア側の東チロルとイタリア側の南チロルでは帰属意識に違いがあるのかもしれませんね。
    今回の私の旅行は、メラーノの前のトリエステ、その前の南仏オクシタニア地方の歴史と風土に触れるもので、メラーノは帰国前の骨休めのつもりでした。ところが、チロルの歴史やホーファーについて初めて知ることになり、帰国の当日、web検索でこのページに出会うことができました。見識の高さと同時に美しいレイアウトと写真、ただものではないぞ、羊さんは!!
    ともあれ、こうしてコミュニケーションがとれることをうれしく思っています。
    マラソンをされておられる様子。実は私は還暦を過ぎてロードバイクを始めました。週末には若い仲間の後を追いかけ長距離走やヒルクライムに励んでいます(汗)。そんなわけで、「自転車王国」の記事も楽しく拝読しました。
    メラーノはジロのコースにもなっていて、丘陵の写真を仲間にもメール添付したところです。

  6. より:

    hattori 様、私も時(チロル旅行は1年3ヶ月前)と場所と年齢(今年で後厄を終える42歳です)をこえて面白いやりとりができることを嬉しく思います。
    私も今また、いろいろと勉強させられてあらためてチロル旅行の意義が高まり嬉しい限りです。
    昨日、コメントした後もやはり宿のご主人の話に考えるところが大きく、追加で書こうとも思ったのですが、
    ・チロルの起源は元々はメラーノ一帯の南チロルであるのに
    ・上記のように領地をハプスブルク家に移譲してしまった
    ・今ではチロルといえばオーストリアのチロル州(北チロル、東チロル)を指すことが普通(の考え)
    もあって、特に「国家」に対するアイデンティティの感情に複雑なものがあるのでしょうね。
    ハプスブルク家自体も元々、北スイスの一領地だったというようなことをきいたことがあります。
    オーストリアやイタリアのような強い国家色を押しつけるでもない、国というより地域とよべるようなスイスの方が、身近にも感じられるのか?
    穿ちすぎかもしれませんが、宿のご主人の「あえていえばスイス」というのが、意外にも当を得ているのではないかと感じられました。
    hattori 様が、土地の人の心情を表す、そうした何気ない一言をきかれたことが旅の一番の核心だろうと思えて、羨ましい限りです。それこそが旅の醍醐味ですね。
    サイクル王国チロルは旅しているあいだ、強く感じさせられました。
    エッツからメラーノは地図上の距離は近くても、山奥オーバーグルグルを越えるのは昔から相当困難だったらしく、サイクルレースのルートにもなっていない、通過できないのだろうなとは私も思い出していたところでした。

  7. hattori より:

    羊さん さん
    知的なご返事、ありがとうがざいます。
    チロルについて、あなたの記事やコメントから考えさせるれることもあります。
    貴原稿にあるとおり、ハプスブルク家の出は北スイス、ライン川の上流のハビヒツブルク(Habichtsburg)=鷹の城。そのため、紋章は双頭の鷹が描かれています。その後、チロル、オーストリアに軸足を伸ばし、オーストリア大公の地位を確立し、マクシミリアン1世の代にローマ教皇の承認を得ないまま神聖ローマ帝国皇帝を名乗り始めます。そんな事情からオーストリア側の東チロルではマクシミリアン1世の人気が高いのでしょう。しかし、オーストリア帝国(神聖ローマ)の版図は拡大するにつてチロルは辺境の地になってしまったと思います。とりわけ南チロルは帝国の中心部からはなれ、隷属的関係を強いられたものと推測します。この違いがオーストリアに対する東と南チロルの意識の相違ではないでしょうか。第二次大戦後、東チロルはオーストリアに留まり、南はイタリアと別れたわけですから、両チロルの人々の意識に微妙な違いがあるのも自然なことのように思えます。
    これはあくまで推論ですので、今後チロルの歴史を勉強する際のテーマとしていきたいと考えています。また、情報、ご見解があれば教えてください。

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