ハプスブルク家の危機を救った女帝

オーストリア継承戦争

ロココ様式の華麗な装飾 ヘルプリングハウス(Helbinghaus)
ロココ様式の華麗な装飾
ヘルプリングハウス(Helblinghaus)

マリア・テレジアの父、神聖ローマ皇帝カール6世は、30年戦争(1618-48)で疲弊した国をどうにか立て直す功績を残したが、一人娘のマリア・テレジア以外に男児に恵まれずハプスブルク家に共通する後継者問題に頭を悩ませていた。

マリア・テレジアが産んだ3人もいずれも女児と、孫にも男児は現れない。かくしてマリア・テレジアに国を託すしかなく、生前の内に領土不可分と女系継承を認めた長子相続制の詔書を作成し、周辺国の承認を得ていた。


ところが1740年にカール6世が急逝すると、フランス、スペイン、バイエルン、ザクセンが手のひらを返したようにマリア・テレジアの継承を否認して開戦。プロイセン王フリードリヒ2世もこの機とばかり弱みに付け込んでオーストリア領シュレージエンに侵攻するなど、周辺国も参入してハプスブルク家を断絶しにかかってきた。

ハプスブルク家の危機を救った女帝

後、8年にわたるオーストリア継承戦争の始まりである。4人目を身ごもっていたマリア・テレジアは、ハンガリーの協力やイギリスの支援を得てシュレジエンを割譲しつつもどうにか領土の大半は守り抜く。

歴史のスパイス:マリア・テレジアは女帝と呼ばれるが、オーストリア大公を継いだだけで、神聖ローマ皇帝にはついていない

マリア・テレジア自身の即位はあくまで認められず、帝国皇帝には夫のフランツ1世が選ばれる形で帝位もどうにか確保し戦争は終結する。マリア・テレジアは皇后という立場だが、実質的には彼女が全て政治を取り仕切ったことから「女帝」と通称される次第である。

シュレジェンの奪回を目指して対プロシア復讐に燃えるマリア・テレジアはその後、1756年には七年戦争を起こす(~1763)など、類稀な女傑として周辺国の王侯らにも一目置かれた。

15世紀末にジクムント大公によって建立された城をマリア・テレジアが1754~1773年にかけてバロック様式で改築させた王宮。1765年には息子レオポルト2世の婚礼が行われた。内部はウィーン風の華麗なロココ様式で施されており、ミニ・シェーンブルン宮殿の味わいを見せている。

王宮(Hofburg)
朝陽をあびる白亜の王宮(Hofburg)

外壁はマリア・テレジアン・イエローと呼ばれる淡い黄色と白に塗られていたはずだが、今は塗り替えられたのか、白一色となっている。

我が子は政治のカード

ゴールデナー・アドラー(Goldener Adler)
教科書にも必ず載る「マリア・テレジアとその家族」
16人の子どものうち13人が描かれており息子達の位置からも彼女の「女帝」ぶりが示されている

ちなみに、世継ぎの弱みに付け込まれた継承戦争であったが、皮肉なことに、このとき彼女のお腹にいたのが、先の凱旋門建立が結婚祝いであった長男ヨーゼフ(レオポルト2世)であった。

多忙な政務の中で彼女は子どもを16人産んでいる(5男11女)。ここでもハプスブルク家の繁栄のために、マリア・テレジアは自分の娘達を政治のカードとして大いに利用した。自身は一人娘でありながらも恋愛結婚を成就させつつ、我が子達は政略結婚の駒として容赦なく動かした。最も有名なのが11女マリア・アントニア。

オーストリアは継承戦争を機に、脇腹にプロイセンという刃を常時突きつけられた形となっていた。かつ、プロイセンがイギリスと接近したこともあり、七年戦争では150年来の宿敵フランスと手を組まざるを得なくなった。さらに政治家マリア・テレジアの画策したのが、14歳でルイ16世に嫁がせたマリー・アントワネット(マリア・アントニアのフランス語読み)のフランス送りである。

無能な国王と浪費家の我が娘の行く末を案じていたが、彼らの悲惨な最期を見ることなく革命の9年前にマリア・テレジアは生涯を閉じた。


 

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  3. hattori より:

    羊さん
    時空+年齢を超えて引き付けられる不思議さを実感しています。
    チロルの前はトリエステ、オクシナニアともうしましたが、実は、その前に北ドイツ、オスナブリュック市(ニーダザクセン州)に住む20年来の友人の家にいました。
    同市は古いビショップタウンですが、名前が歴史上注目を集めるのはドイツ30年戦争終結時に締結されてウエストファリア条約の一方の舞台となったからです。すなわち、プロテスタント側の諸侯はオスナブュック市に、かたやカソリック側(オーストリアを含む)の勢力は南に50キロ離れたミュンスターに集まり、交渉を重ねた結果、先のウエストファリア条約に調印した次第です。そのため、両市のラウトハウスにはそれぞれ「平和の間」が残され、関係資料が展示されています。
    ここまでは私のつたない知識ですが、その当時の皇帝がカール6世でマリア・テリジアの父親であったことは失念しており、このページで覚醒させられました。歴史の縦の時間軸と横の地理的空間軸とをクロスさせるのは難しいものですね。この発見の嬉しさゆえ、コメントした次第、お笑いください。
    さて、30年戦争はドイツの近代化を遅らせる要因となったと同時にハプスブルグ帝国の衰退の契機ともなったことは周知のとおりです。
    で、今回はドイツの旅ではオスナブリュックとミュンスター両市の平和の間を再訪し壁に飾られている双方諸侯の肖像画を見比べました。一般的にはプロテスタント、カソリック双方の代表団別に飾られているというのが、ドイツ人も含めた常識(?)なのですが、なかには双方に飾られたいる人物のいるのです。これは、両市で発行されているパンフレットにも出ており、確かめたので見間違いではありません。(Matthia Mylonius Biorenklou など)理由をドイツ人の友人に尋ねても要領を得ません。「そんなはずはない」と。私としては、双方に良い顔をしていた人物がいたのかな、とも思ったり。
    このへんの事情をご存知でいたら教えて欲しいと思います。
    羊さんのご興味はオーストリアから東のドイツ語文化圏のようですが、私の場合はどちらというと西方。でもハプスブルクの“青い血”の縁で、またクロスするかも知れませんね。

  4. より:

    hattori様、いつも興味深いお話をありがとうございます。
    しかし私はこの程度の拙いページをつくりあげるのが精一杯で、教えるなどとんでもないことです。ご容赦ください(笑)
    hattori様のお話にこそたくさん教えていただくことばかりで、無知な自分には本当にありがたく思っているところです。
    もちろん私も世界史は大好きですのでこれからもそうした意識、視点をもっていろいろと知り、学んでゆきたいです。
    ただ現地へ足を伸ばすのが一年に一度、休みに行けるかどうかくらいで残念ですが、お話のやりとりをさせていただくうちに俄然、再訪したくなりました。

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