壮絶な耐暑レース

メルボルンの雪辱レース

元々、オリンピックにしろデフリンピックにしろ、マラソンが夏季大会の種目になっているのが競技本来の主旨にそぐわないのだけれど、今回は加えてデフリンピックとして初の亜熱帯地域開催ということで、とりわけ暑さ対策を念頭に置いてトレーニングを重ねてきた。

僕自身は前回メルボルン大会を経験できたことが色んな面で大きな財産となった。

  1. 海外レースということ
  2. 日本代表選手の立場ということ
  3. 真夏のレースということ

どれも普通には経験できない(3番目は経験したくない)ことである。加えて、豪州が南半球ということで季節が逆だったこと・・・は、もう活かす機会もなかろうけれど・・・。

いずれにせよマラソンは一本一本のレースの経験が非常に大きな力として選手に蓄えられてゆく。5000mのように毎週、数日おきにでも経験できる類と違って、年に一本から数本しか体験(経験であり実験であり)することができない、下手をすると昨年の僕のように一本も経験できないことさえあるから、経験をうまく活かせれば若さやスピードや、に負けないそれ以上の武器にもなりうる。

男子馬拉松決賽第三名為日籍選手
男子馬拉松決賽第三名為日籍選手Kaneko Seiichi
ゴール後、腕も頭まで上がらなかった

僕にとっても振り返ってみると、マラソンでいえばメルボルン大会(1月)、2000年玉造マラソン(9月)、夏レースとまではゆかないが気温があがって完走率が60%を切った2007年びわ湖毎日マラソンの3本といったところだろうか。それに直前の洞爺湖が初めての春マラソン(2001年のボストンは4月でもまだ少し肌寒かった)。

男子馬拉松決賽第四名同為日籍選手
男子馬拉松決賽第四名同為日籍選手Yamanaka Kohichiro
団長に担がれるKOUICHIROU選手

9年前も凄まじかった玉造マラソン

中で、2000年玉造マラソンを完走できたことは大きかった。まさか、こんなところで生きてくるとは当時、考えもしなかった、その後のことなんて予想のしようもなかったことでも「あのとき自分は頑張れたのだから」という自信はとても大きく残る。マラソンの原点はやっぱりそこで、どんなにつらくても崩れてもやめずにゴールして得られる充足感は絶対にいつか生きてくる。


玉造マラソン自体は途中関門が厳しいわけでもないのに完走率37.2%と過去最も低いレベルまでに落ちたほど厳しかったその年のコンディション。終始、気温29度、湿度70%近くの中、リタイアする選手が続出した。僕にとっては初の公認マラソンで、完走したのは意地や目標があったからというのでなく、まだ身体を大事に考えてレースを捨てる(棄権する)という選択肢を持たなかっただけのこと。単純にDNFする以上に、本気で走ることを止めよう、この世界からさっさと足を洗おうと思いながら走って(ほとんど歩いて)いた。

第三名選手Kaneko Seiichib熱得吐舌頭
第三名選手Kaneko Seiichib熱得吐舌頭
3位選手金子、暑さに舌を出す・・・なんか犬みたいな書かれ方

当時の記録をみるとあらためて壮絶だったことが分かる。1位でさえ2時間37分40秒、2位が2時間41分22秒。この広島の2人のランナーは全国的にも名が知れている、普段なら常時、2時間20~22分を出して各地の大会で優勝経験豊富な実力選手。

それを思えば玉造を上回る暑さと湿度だった台湾で2時間40分なら僕も健闘した方だ。今さらながらよく耐えて走りきったものだと自分で泣けてくる。KOUICHIROU君の2時間47分、MASAHITOさんの2時間50分も然り。ケニアや南アフリカの黒人ランナーでさえ倒れて担架で運ばれるくらいだったのだから。2000年の玉造でも2時間50分が切れたのはわずかに7人。玉造のレベルは決して低いものでない、優勝者のタイムが25年さかのぼるほどのワーストだった、この年が異常過ぎたのだ。

日籍選手Yamanaka Kohichiro跑完全程大腿承受不住抽筋倒地
日籍選手Yamanaka Kohichiro跑完全程大腿承受不住抽筋倒地
日本KOUICHIROU選手、完走後大腿の痙攣で倒れ込む

ともあれ、記録はひどいモノだったけれど、とにかくあのとき自分は走りきったのだという自信は以後に大きく残ったし、とにかく「一度、経験したのだ」という強みはあった。今回のレース展開、ペース配分は事前に予想のつかなかったものだけれど、それでも一番のベンチマークとして活用できた。イメージトレーニングというなら、あのときの玉造を思い出すことがそれとして効いた。開催日もぴったり同じ時期の9月中旬(2000年9月15日)。

僕の短いながらもこれまでのマラソン人生の中で最も苛酷なレースだった。きっと今後もあれほどの思いをすることはないだろう。

その経験が活きた。9年の歳月も捨てたものじゃない。

今はもう玉造にフルマラソンの部はなくなったし、オリンピック選手でもない限り夏マラソンを考える必要もない(生命が危ない)。一市民ランナーとしての僕の今後も、もう夏レースをすることはないだろうけれど、それだけに数少ない経験が大きかった。


画像出典:2009年臺北聽障奧林匹克運動會(デフリンピック公式サイト)


 

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