我が闘争と強制収容所

強制収容所

「バイエルンのローテンブルク」とよばれるほどに中世の趣を残すランツベルクの、積極的には披瀝されないもう一つの顔が刑務所の存在する町であること。

刑務所だけならそう珍しくないが、第一次大戦後は「城塞禁固」受刑者の拘置施設として、ミュンヘン一揆を企てて有罪となったアドルフ・ヒトラーを収監していたことで特に有名である。ヒトラーは服役中の1924年に「我が闘争」を口述筆記している。

ランツベルクの町並み
ランツベルクの町並み

第二次大戦末期にはそのヒトラーによりランツベルク、カウフェリンク周辺に外部強制収容所群が建設され、大勢のユダヤ人が収容された。大戦後に連合軍が保護、解放した後、今度は連合軍によりランツベルク刑務所が第一戦犯刑務所としてナチス首謀者らを収監した。1958年に閉鎖された後、現代は成人男性用刑務所として州司法省により運営されている。

国家社会主義都市

オーストリアからミュンヘンに移住したヒトラーは、ミュンヘンで結成された労働者党に入党後、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)と改称して党勢を拡大してゆく。

ヒトラーが全権を掌握したナチス政権下で党大会の開催された地がニュルンベルク。現代なら北朝鮮のニュースで目にするような、映画や画像で有名な、壮大な演出を込めたプロパガンダとしての集会。

ゴシック様式のバイエルン門 Bayertor
ゴシック様式のバイエルン門 Bayertor

ランツベルクは、これらミュンヘン、ニュルンベルクに次ぐ第三の国家社会主義中心都市であった。ミュンヘン130万、ニュルンベルク50万の人口に対してランツベルクはわずかに2万人の小さな都市でありながら、その重要な役割を果たしたのは、他でもなくヒトラーの服役地であり、我が闘争の執筆地であったからであろう。

歴史の清算

もちろん、今、町にその雰囲気は微塵もない。かつての熱狂は歴史の過ちとして表面的にはきれいに洗い流されている。ミュンヘンにしろニュルンベルクにしろ、町がヒトラーやナチ政権下のことを前面に押し出すこともない。ランツベルクで手にしたリーフレットにも記述はない。一つの側面としてのモニュメントはあっても、当然にこれらの町にはもっと他に誇るべき素晴らしい歴史があるのだから。

GEDENKET DER KRIEGSGEFANGENEN UND DER VERMISSTEN 1953
GEDENKET DER KRIEGSGEFANGENEN UND DER VERMISSTEN 1953

これも加害者側と被害者側の違いだろうか。例えばポーランドやハンガリーやチェコスロヴァキアや、の国や都市が、その受けた傷を永遠に忘れぬことをレーゾンデートルとして主張するのに対し、贖罪する側はそうもゆかない。日本もヒロシマやナガサキやオキナワ・・・は永遠に忘れなくても、同様に罪を犯したことの方の意識や反省や、が国民に、あるいは国家にずっとあるわけでもない。人間の業といえばそれまでか。

上の画像はハウプト広場東側の城門シュマルツ塔をくぐる際、内部の壁に目立たず掲げられているのに気付いたもの。「戦争捕虜と失踪者の追悼(追憶)1953年」といった意味だろうか。

ひっそりとした、静かな佇まいに魅力を覚えたランツベルクの、けれども、どことなく陰を残したような含んだような雰囲気が、今ならなるほどとうなずける。それをも合わせての風情になっているのが、歴史の絶妙な調合といえるだろうか。


 

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