幻の城、謎の城 屋嶋

史書に記述がありながら

7世紀、日本がまだ倭の国と呼ばれていた頃、朝鮮半島にあった百済・新羅・高句麗のうち親日的であった百済が、新羅と中国の唐の連合軍に滅ぼされた。日本(倭)は百済に援軍を送るが大敗して百済とともに撤退。敗戦後、大和朝廷の中大兄皇子は、唐と新羅の侵攻に備えて国を守るため、対馬から九州、瀬戸内海にかけて防御用の城を築かせた。そのひとつが屋嶋城(やしまのき)で、667年に築城されたことが「日本書紀」に記されている。

史書に名のある山城が9、史書に名のない山城が16ヶ所とされているが、史書に名があっても実際の所在が不明なのがいくつかあり、山口県の長門城もその一つ。屋嶋城も確認されているのは城門跡のみ。屋嶋の断崖絶壁という自然地形を活かして山上の全長7kmに城壁を有し、うち人為的に築かれたのが約1割と考えられており、城の造りや防御遺構に朝鮮半島の技術がみられ、築城に百済の人が関わっていたことがわかるという。

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修復された屋嶋城壁

唐・新羅軍が実際に攻めてくることはなかったときくと、徒労に終わってしまった感の強さや、そもそも北部九州・山口への築城くらいなら分かるものの、四国高松のこの地にまでわざわざ築く必要があったのだろうかという疑問、加えて、敵もこんな高台にわざわざ攻めてくるだろうか、といったことが高松の街並みを見下ろしながら思えて笑みを禁じ得ない。

かつては、実態不明で本当に存在したのか疑問がもたれ「幻の城」とも呼ばれていた。城門が発見されたのは平成14年の最近のことで、その後、9年かけて城門城壁が修復され、今年3月から公開されているが、屋嶋城の全容は未だ謎に包まれている部分が大きく、分かっていないことが多いだけに、海も時も越えた、何とも遙かな思いが自由に巡って愉快にさせられる。

屋嶋城に百済との縁が見られるなら、翌8世紀、唐との縁が八十四番札所屋島寺。唐僧鑑真が朝廷に招かれ奈良に向かう途中に訪れて開創。古代山城の屋嶋城が閉鎖されたため、その跡地に寺院が創設された。本堂は朱塗りの美しい佇まい。鎌倉様式の風格と美が復元されている。

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鎌倉時代の様式美を残す屋島寺

その他、日本三名狸にも数えられる屋島の太三郎狸や、合戦に勝った源氏軍が陣笠を投げて勝どきをあげた故事に倣い、北側、瀬戸内の島々や遠く瀬戸大橋を望む獅子の霊巌から小さな素焼きの土器を投げて開運や厄除けを願う「かわらけ投げ」も楽しいポイント。到底、一日ではまわりきれない程の史跡や歴史遺産、また、豊かな物語が詰まっている。


 

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