衰退、そして廃墟と化した無人の町、復活へ

やや地味で閑散とした通りも

スヴォルノスティ広場に続くナ ロウジ(Na Louži)。「水たまり」という意味の地名は、広場から少し降りたところにあるため、ヴルタヴァ川の氾濫の際に水が流れ込んでいたことによると知るとうなずける。

ナ ロウジ(Na Lou?i)
ナ ロウジ広場(Na Louži)

ナ ロウジを抜けるとシロカー通り(Široká ulice)。町の中で一番広い(=シロカー)通りだが、広いといっても他が全て細い路地に対しての相対的な尺度。町の入口から見るとヴルタヴァ川が一周する一番奥に当たる地点。ここに前回、言及したエゴン・シーレ美術センターがある。

この美術センターが元ビール醸造所の長い建物であるのと通りの広さとで、町の中ではやや閑散な印象をもたらしている。他が華やかな分、やや地味で、ここはカメラを向けたものの、撮らずじまいだったことも覚えている。今にすると悔やまれるし、絵になる写真ばかりを撮ろうとする自分が情けなくもなる。

衰退してゆく町、そして廃墟へ

先に、ロジェンベルク家ヴィレームにより華やかなルネサンス文化がチェスキー・クルムロフに持ち込まれ、18世紀にかけてはリトル・ウィーンと呼ばれるほどに栄華を極めたことを触れた。けれども、18世紀末から19世紀にかけて、その栄華と美しさに陰りが見え始めた。

ブディェヨヴィツェ門
最後に残ったブディェヨヴィツェ門

イエズス会寮が兵舎へと姿を変え、クレア女子修道院、ヨシュト教会は廃止となった。かつて町の要塞として造られた9つの門のうち8つが取り壊された。

20世紀初め、エゴン・シーレが訪れて描いた風景画も重苦しい雰囲気。産業革命以後、森の中にたたずむこの街は近代化に乗り遅れ、住む人々も徐々に少なくなっていった。つい四十年前は街中の建物が修理されないまま放置され、訪れた人がショックを受けるほど荒れ果てたひどい状態だったという。シロカー通りがまさしくそれだったろう。

衰退していくチェスキ・ークルムロフに、さらに大きな試練が待ち受けていた。

1938年、街にナチスドイツが侵攻する。チェコ全土がドイツ領となった時代。国境に近かったチェスキー・クルムロフからはチェコ人全てが追い出され、住民はドイツ人だけになった。その後、第二次世界大戦でドイツが敗れるとチェスキー・クルムロフは無人の街となった。今度はドイツ人がチェコから追放されたのだ。

街は静かに荒廃していった。「眠れる森の美女」──そう呼ばれるようになった。1948年、社会主義政権樹立。かつての貴族文化は軽んじられ、街の価値が顧みられることはなかった。20年前、城には警察官が駐在し道路の建設事務所が置かれたり、と国の様々な機関の庁舎として使われていたが、城の管理スタッフでさえ街を自由に歩くことは許されなかった。

美のタイムカプセル 復活にかける

町も城内も半ば廃墟となっていたが、1989年、社会主義政権崩壊。これを機に城の修復が始まる。

貴族たちの思いが結実した城の美。古き良き時代の面影を色濃くとどめる街並み。今、見ることができるのは、町を蘇らせようとする人々の思いに支えられてきたから。悠久の時を超えた調べが響く世界遺産、チェスキー・クルムロフは、中世のまま残った町ではなく、中世の姿を取り戻した町なのだ。


夜のチェスキー・クルムロフ城
夜のチェスキー・クルムロフ城


 

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