美の集積を象徴するチェスキー・クルムロフ城

さまざまな美の積み重なる街、城

ここでは街の起源となったチェスキー・クルムロフ城について。

城内はガイド付きのツアーで巡る。チェコ語ガイドと英語・ドイツ語ガイドとでは料金にだいぶ差があって、「どうせきこえないんだから」(あるいはきこえてても英・独語が理解はできないんだから)と、迷わず安い方のチェコ語ガイドツアーにする。時々、面白いことをいっているようなガイドの説明に笑っていない人が半分はいたので、各国からの観光者もおおかた僕らと似た状況だったろう。

ヴルタヴァ川沿いに立つチェスキー・クルムロフ城
ヴルタヴァ川沿いに立つチェスキー・クルムロフ城
下からゴシック、ルネサンス、バロック各建築の積み上げ

それはさておき、その分のカバーは城内で買ったガイドブックなり日本に戻って放映されるテレビ番組でだいぶ補うことはできた。

そびえたつ塔をシンボルにしたこの貴族の居城は、貴族の館など建物の数41、部屋の総数は340にのぼり、チェコでプラハ城に次ぐ大きさを誇る。

城も塔も長い歴史の中で改造が繰り返されてきた。下から13世紀ゴシック様式、16世紀ルネッサンス様式、17世紀バロック様式と美の様式が階層的に積み重なっている、一同に会しているのがこの城の特徴。前の時代に造られたものを壊すのでなく、新たな美を取り入れることで次々と城を拡張していった。

伝統や古さを尊重し、街にさまざまな美が積み重なっているといわれる所以である。

第二中庭
第二中庭

栄華を誇った貴族らの統治

14世紀当時、ボヘミア王国はドイツ地域を領域とする神聖ローマ帝国の一部だった。そのうち南ボヘミア(現オーストリアに接する地域)一帯を支配する王国最大の貴族がロジェンベルク家である。

その力の強大さを示すものが、城に残っている地下牢「ヴァーツラフの地下室」。

夜に浮かぶ城の塔
夜に浮かぶ城の塔

1394年、ここに神聖ローマ皇帝ヴァーツラフ4世が幽閉された。皇帝の強大な政治を諫めるため、時の城主が捕らえたほどにロジェンベルク家は皇帝と渡り合うほどの力を誇った。とりわけ300年にわたり街を納めた当主の内でも、16世紀、最盛期のロジェンベルク家当主がヴィレーム2世。彼が館を華やかなルネサンス様式に大改築した。

城内ツアーはルネサンス様式の部屋に続き、バロック様式の部屋へと案内される。

ここでは栄華を極めた城主らによる華麗な装飾、調度品の数々を見ることができる。世界各国の一流品、ウィーンの銀食器、ベルギーのタペストリー、チェコ・ボヘミアングラスのシャンデリア、日本の伊万里焼も・・・と、きらびやかなバロック文化が積極的に取り入れられた。また18世紀にできた「仮面舞踏会の間」はロココ調装飾の傑作で、当時、ヨーロッパ各地から貴族が集まるなど、館はリトルウィーンと呼ばれるほどの隆盛を見せた。

繁栄を支えた産業

皇帝と渡り合うほどの力を誇ったロジェンベルク家。強大な権力の源はどこにあったのか?

チェスキー・クルムロフから北東に向かう地。ロジェンベルク家が500年前、湿地帯に目を付けてつくった池で今も続く伝統産業の養鯉業が行われている。池も鯉も人工的につくったもの。鯉は海のないヨーロッパ内陸部の人々の貴重なタンパク源として国内、他国に輸出されるなど大きな利益を生み出した。

養鯉業に加えてもうひとつの利益の源が城で精錬された銀。15世紀に発見された銀山の採掘権を市民に売却することで、ロジェンベルク家は売却益に加え、掘り出された銀を買い上げることで莫大な富を手にした。

結果、銀は市民をも豊かにし、街は大きく発展していった。

これも「世界ふしぎ発見」で問題になった他、雑学クイズ等で何度も繰り返されるのが通貨単位「ドル」の語源。すなわち、チェコで産出された銀貨のドイツ語名を語源とするもので、チェコの「ヨハミアムの谷(Joachimsthal)」で鋳造された銀貨Joachimsthalerの短縮形 Taler が daler となり、dollar となった。中世チェコの繁栄を物語っている。

次回以降は城を出て、その市民の暮らす街の姿を。


 

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