聖キュリルと聖メトディウス

聖キュリロスと聖メトディウス

聖ヴィート大聖堂内、ムハの描いたステンドグラス

聖ヴィート大聖堂にあるステンドグラスの、ミュシャによるデザインの題材が「聖キュリロスと聖メトディウス」。

『物語 チェコの歴史』の第1章に登場した兄弟。前回、記したリブシェ神話によるチェコの最初のプシェミスル王朝時代よりさらに遡る、9~10世紀、一帯がモラヴィア王国の統治だった頃。キリスト教伝道をモラヴィア王国に請われて、東ローマ帝国の派遣したのがスラブ語に通じていた兄弟である。

二人はモラヴィア王国へのキリスト教布教、さらにはスラブ語による典礼を果たした。メトディウスの方が兄であるが、弟キュリロス(キリルとも表記、元の名はコンスタンティノス)の貢献度合いが大きいため先に呼ばれる。

ステンドグラスには幼年時代のヴァーツラフ1世と祖母が中央に、兄弟の生涯の活動が周囲に描かれている。前回、ムハ(ミュシャ)の晩年の渾身作「スラブ叙事詩」について触れたが、こんなところにもムハがスラブ民族の歴史に対して強く意識していたこと、チェコ民族のルーツの自覚を自らの芸術活動のテーマにしていたことがよく分かる。

帰国後に学習してゆくもの

聖キュリロスとメトディウス教会
Kostel sv.Cyrila a Metoědje
聖キュリロスとメトディウス教会

ヴィート大聖堂内のステンドグラスはどれも申し分ない神秘的な美しさであり、胸を打たれるのだが、ここが飛び抜けて人気なのは、確かにミュシャの手による芸術性もあるだろうが、それ以前にやはり、みんなミュシャというネームブランドに感心しているはずである。そして、ご多分に漏れず僕もそうである。

今こうしてもっともらしいことを書いている僕も、今回は出発前に割と勉強してから出かけたつもりではあるが、帰国後にあらためて調べ直していることの方がずっと多い。

実はこのキュリロスとメトディウスもまさにそうで、実物を見ているときにはまだ本で読んだ知識と結び付いていなかった。帰国後に初めて「ああ、そうだったのか」と知った次第である。でも、遅れて知る嬉しさも格別である。ここにこそ旅行記をこつこつとでも書き上げる喜びがある。

それから、今はデジカメの時代になった分、フィルムカメラのように予算を気にせずバッテリとカード容量が持つ限り、無尽蔵に撮影しておけば後で面白いことに気付けることも多くなった。

ナチスとの抗戦跡

路面には1942の年号
路面には1942の年号

果たして今回、ミュシャのこのステンドグラスを調べていると、「キュリロスとメトディウス教会」なるものがあるらしいことを知る。もちろん、プラハ市内にはそれこそ掃いて捨てるほどに教会があるから、そう名のあるものではないし、観光スポットと呼べるほどのものでもない。

こんな時は現地で購入した地図の出番。帰国後の今にして見ると確かに載っていて、すると「ここの通り(=レスロヴァ Resslova 通り)なら歩いたはず・・・」と記憶が呼び起こされる。

前回、記したヴィシェフラド墓地からの帰り道だ。歩いて帰っていたときに、ちょっと面白いなと思って撮影したのがどうやら「聖キュリロスと聖メトディウス教会」だったらしい。

この教会にどうして足が止まったかというと、壁に彫り込まれた兵隊と神父の姿、その下に添えてある花の印象が強烈だったから。壁面には銃弾の痕跡が、そして足元の路面には<1942>の数字。ナチスとの何かを表していることはすぐに分かる。

第二次大戦中、「チェコのドイツ化」徹底を進めていたナチス親衛隊ハインドリッヒの専政に対抗して、暗殺計画に携わるチェコ人部隊が計画される。ハインドリッヒの死後、レジスタンス協力者により部隊が匿われ潜伏していたのがこの教会。しかし、ナチスの怒りは凄まじく、執拗な報復を受けて1942年6月に部隊員は最期を遂げる。壁の銃弾はその激しさを語っており、当時のチェコ人の勇敢なレジスタンスを記念してプレートが掲げられている。

・・・ということを、とりあえずは写真に収めておいて帰国後に「なるほど、そうだったのか」と知ってゆけるのが面白い。

宣教師の先駆け、キリル文字への発展

銃弾跡の残る聖キュリロスと聖メトディウス教会の壁面
教会壁面に神父と兵士像、そして銃弾跡

このキュリロスとメトディウス、旅行前『物語 チェコの歴史』の第1章、観光気分で読んでいたときは訳が分からなくてつまらなさを感じていたのだが、勉強しているとこうして続々とつながってくる。

当時、ローマ教会とコンスタンティノープル教会とが対立していた際、後者からスラブ民族にキリスト教を布教した功績が知られているのだが、単なる布教にとどまらず、キリスト教の布教史ともいうべきか、宣教師の先駆けとしても極めて重要な位置付けであるよう。

キュリロス(キリル)というのは、コンスタンティノスが死の直前に修道士として授けられた修道名。コンスタンティノスがスラブ語での布教のために考案したスラブ語のアルファベットは、彼の死後、キリル文字と呼ばれるようになる。このあたりから高校で学ぶ世界史にも関わってくる。

キリルの死後、兄のメトディウスやその弟子らはフランク・ゲルマン人らの抵抗にあうものの、ブルガリアでキリスト教は受け入れられ、さらにはキエフ、ロシアにまで到達する。キリル文字も同様にロシア語の表記に使われるようになる。


 

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