フランツ・カフカ、村上春樹の原点

音楽編に続いてはチェコの文学。

プラハの生んだ世界的作家、カフカ

フランツ・カフカ
Franz Kafka
(これはマッチ箱のラベル)

旅行前、ジャーナリストにしてエッセイスト、政治にも深い関わりのあったカレル・チャペックを読んだけれど、世界的なチェコの作家というとフランツ・カフカ(Franz Kafka 1883~1924)。

カフカは旧市街地区(ユダヤ人地区の外れ)で生まれ育ち、プラハで生涯のほとんどを過ごした。プラハを愛してやまなかったというが、最初、僕はカフカとチェコがうまく結び付かなかった。それは、カフカが作家として認められたのは死後のことで、かつ、チェコという国が公然とカフカを誇るようになったのがつい最近、共産党政権が崩壊して1990年代以降のことゆえ。

ユダヤ系から生まれたチェコの誇る文化

社会主義時代、カフカはチェコにとって「公認」の作家でなかった。というのも、カフカがユダヤ系人種であったから。カフカの父はユダヤ人であり、カフカもドイツ語を母語とする、ドイツ人に同化したユダヤ人だった。

プラハにはユダヤ人地区があり、チェコには中世の早い時期からユダヤ人が住みついた。チェコという国もユダヤ人を保護してきたから、プラハはヨーロッパ最大のユダヤ人居住区を抱える都市であった。

羊の本棚 「同居」した人々、そして居なくなった人々


しかし、反ユダヤ主義の差別や追放政策も根強く、ユダヤ人達は迫害と保護のはざまで苦難を耐えて生き抜いてきた。カフカの妹たちや恋人も、(カフカの死後の出来事であるが)ナチスの強制収容所で命を落としている。

ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した。

目覚めると自分の身体が虫になっていたという『変身』、『審判』や『城』といったカフカの代表的作品にみられる不条理の世界は、絶えず不安を抱えながら生きた彼の出自や時代が、色濃く影を落としているのだろう。

黄金小路22番・カフカの仕事場
黄金小路(Zlatá ulička)中のNo.22
青く塗られたカフカの家

プラハ城内には、宮殿の護衛兵のために建てられた小さな家の並ぶ通りがある。錬金術師が住むようになったとのいわれから「黄金小路」と名付けられた小道は、今では土産物屋が並んでいる。その中の青く塗られた22番の家は、一時期、カフカが仕事場に励んだ場所である。


村上春樹とフランツ・カフカ

最近の日本でいうと村上春樹氏の『海辺のカフカ』を想起する人も多いのではないかと思う。また、昨年2006年、チェコのフランツ・カフカ協会により「民族文化の重要性を喚起することなどに貢献した作家に贈られる文学賞」として氏がフランツ・カフカ賞を受賞したことも記憶に新しい。

『海辺のカフカ』ではカフカ少年(僕)が図書館の大島さんと出会ったところで登場する。

「『流刑地にて』」と大島さんは言う。「僕の好きな話だ。世界にはたくさんの作家がいるけれど、カフカ以外の誰にもあんな話は書けない」

「僕も短編の中ではあの話がいちばん好きです」

「カフカは僕らの置かれている状況について説明しようとするよりは、むしろその複雑な機械のことを純粋に機械的に説明しようとする。つまり......」、僕はまたひとしきり考える。「つまり、そうすることによって彼は、僕らの置かれている状況を誰よりもありありと説明することができる。状況について語るんじゃなく、むしろ機械の細部について語ることで」

プラハの旧市庁舎で行われた授賞式に出席した氏にとってカフカは「最も好きな作家の一人。私の作家キャリアの出発点」なのだという。

本は自分の内部の凍った海を打ち砕くおのでなければならない

この言葉も強い信念を感じさせるカフカに通じるところがありそうだ。

「カフカへの恩返し」村上春樹氏、プラハの会見で - チェコ 国際ニュース : AFPBB News

今では観光業のシンボルとしても

カフカ・ショップ
FRANZ KAFKA SHOP

1989年のビロード革命後、今では公然と「プラハの作家」として観光業に利用されるようになった。黄金小路にはKafka Cafe が、また、Flanz Kafka Shop なるチェーン店らしき土産物屋がプラハの街のここかしこに見られる。

死後、自分の作品を燃やしてくれるように約束を遺していた(が、友人が果たさなかったおかげで現代の我々がその文学に触れることができている)カフカは、自分が商業的に利用されるようになったプラハをあの世でどう思っているだろうか?

ユダヤ人地区については、また、先で触れてみたい。



 

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