新年度、仕事の本質を

行く道に道標はなく

新しい若い人がやって来て、入れ替わりもあり、の中、自分は引き続き、の職場。

仕事の内容が変わる職種で採用されながら、もうすっかり自分は専門職化している。この職場では過去にも例のない長さ。障害という特殊の事情という点もあるが、そもそも自分の存在が前例のない初めてのケース。

ただ(障害は関係なく)、全国的には全くないわけでもないのは、専門的特殊な分野であることも確かなゆえ。

2、3年いて変わるのが普通でも、大半はきっと心残りをもって去っているだろう、数年いたくらいでは満足な気持ちを残せていないはずの、そういう内容の仕事である。考えてみれば当然で、30年やったから立派な学者やエコノミストになれるわけでない。徹底してやってもものになるかどうか。

僕自身、何年やってもこれで良しと思えることはなく、本当に汲めども尽きぬ深みのある世界。人間、何が岐路になるか分からないものだ。たいていの人はおおよそのラインが読めるものだが、僕自身は、これまでもこれからも未知のケースであり続ける。出世コースからはとうの昔に挫折した身であるが、目の前のものに力を注いで自分が切り開いてゆくことに人生の妙はあると信じたい。

私はかつて、「これはこうだ」とスパッと言い切れるものが好きであった。悟りを開いて悠然としている人に憧れていた。だが社会に出て二十余年、その考えは少しずつ変じている。行く道に道標はなく、仕事で重ねた努力はたまにしか報われず、懸命な考察を他者が違わず汲んでくれることも稀だ。始終揺れ、いくら経験を積んでも明快な答えには辿り着けない。なんとももどかしい。


しかし人は、わからないから考え、想像し、工夫をし、成長するのだ。自分の仕事の本質をなんとか見定めようと目を凝らすのだ。小説とはなにか、芸能とは、工芸とは、電気機器とは、車とは、建築とは......ということを。


それはきっと、「すぐにわかる」ような薄っぺらい場所ではなく、奥行きある世界に自分が身を置いている証なのだと思う。そうして、なかなかわからないものに、いつまでも面白がって関わっていけるとしたら、それこそが仕事をする上で至高のぜいたくであり、幸せなのではないか、と近頃思いはじめているのである。


2013年3月31日 日経新聞文化面 木内昇

「社会に出て二十余年」、著者は同い年かひとつ下かの同年生まれのようだ。


 

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