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聴覚障害者の研修受講
研修機会の少ない聴覚障害者
聴覚障害者も職場で年数を重ねてゆく以上、成長しないわけにはゆかない。仕事をこなす技術や力がずっと同じままではいられない。経験を積み、スキルアップしてゆくことが求められる。
新しい仕事を覚えるとき、また関連の分野を勉強する必要があるとき、研修という制度を利用して学ぶことができる。職業人が職務能力を向上させてゆく手段のひとつが研修である。
ところが、普通、人から学ぶ「研修」というのは音声言語によって講義(レクチャー)がなされる、あるいは議論(ディスカッション)がなされることである。いきおい、聴覚障害者には研修の機会、人から学ぶ機会というものが得にくい。場合によっては皆無でさえある。聴覚障害者に研修させようとするとき、情報保障として通訳の配置が必要になってくるが、常に通訳が配置できるわけではないからである。
通訳措置に伴う費用の問題
先日、上京して1週間、研修を受講した。
これまでの僕は、職場の研修として、年に一、二回の頻度で希望した研修に通訳を配置してもらえてきた。けれども、それは組織の中で用意されている研修システムにおいてである。今回のように、公務による県外の出張先で、所属組織とは無関係の研修を、情報保障として通訳措置された受講は初めてであった。
職場にもよるが、研修の機会は多数、用意されている。研修受講のチャンスは、基本的には本人の希望、意欲による。けれども、僕にとっては通訳が措置され得るかどうかがネックで簡単には手を挙げられない。今回の研修も、今の職場に在籍して4年、かねてから受講したい気持ちを強く有していたものである。県外で通訳(情報保障)を得られるとは思っていなかった(3年前、一度、当たってみたがダメだった)からだが、今回、ラストチャンスかもしれないと思って職場に強く要望してみた。
通訳がネックになるのは、もちろん、それが予算(費用)を伴うからである。通訳は無償ボランティアで行われるものではない。介護がそうであるように、一つの制度として対価を得て行われる福祉サービスである。また、たとえ予算面をクリアできても、主催者の側が対外者に情報の漏れるのを嫌って通訳者の同行を認めたがらないケースも多い。
利用料(通訳者に支払われる報酬)をどこ(誰)が負担するのかは、細かい話になる。通訳の内容にもよるし、主催がどこかというケースにもよる。先に記した同じ組織の研修では、研修の主催者が負担する。今回の研修でも僕が東京都民(区民)であれば、都民(区民)として、区(市町村)の通訳派遣制度を利用することができたろうと思う。今回はそのいずれでもなく、職場の予算を利用するかしかなかった(あと、僕個人が負担するという方法もとれる)。
通訳報酬というのは案外、高額であるから、職場の予算を利用するのも簡単ではない。1、2時間で済む研修ではなく、最低でも1〜数日かかる場合、通訳者は交代で用務に当たるから同時に数人は必要である。例えば、1日7時間の研修を5日間、通訳者2人で行った場合、(時間当たり報酬単価)×7時間×5日×2人分+各通訳者の交通費となり、これは相当な額になる。簡単に支出できる金額ではない。
ここで、全国の聴覚障害者が同じことを言われることになろう、実際に言われているだろう、と思う。「おまえ一人のためにそんな費用は用意されていない」と。それだけの予算があれば、他の聴者数人を研修に派遣できる。そうして、聴覚障害者は研修を受ける機会を持てない状態が続く。
受講機会の少なさは能力向上機会の損失
今回、僕は職場の配慮のおかげで通訳を措置されることができた。これもすんなり見つかったわけではなく、随分と手間どった。現地(東京)の行政サービスとしての派遣制度はすぐに見つかったが、僕が都民(区民)ではないから、当然、利用できない。次に、ここ(山口県)の通訳者が同行する、という案も出た(交通費・宿泊費をも負担して)。最終的には、予算の範囲内で現地の通訳団体からの派遣を受ける便宜を得ることができたのだが、これは偶然の幸運ともいえた。場所によって、内容によって常に運良く見つかるわけではない。こうして、聴者なら手間取ることなく、研修を希望する→受講するといった手続きが、僕ら聴覚障害者にはこれだけで神経を使う作業なのである。さんざん画策してみて結局、ダメだった、ということも少なくない。
それだけに、今回、予算面をクリアして現地からの通訳派遣を得られたのは望外の喜びであった。一日中、講義形式の続く研修期間はハードであったが、非常に有意義な研修となった。
研修の手段として、通信教育というものもある。そもそも誰しもスキルアップを図ろうとするとき、独学が基本といえばそうである。今回の研修内容について、僕もこれまでに机上で関連書籍を読むことで初歩的な知識は身につけていたつもりだった。それでもやはり、今回のように系統立てされた講座で集中的に学ぶことの効率性を痛感した。それはそのまま、こうした研修の受講機会が得られないことが職務能力の向上という点においても大きな損失になっていることをあらためて感じさせてくれたことでもあった。
出張も同じで、聴覚障害者には縁がない業務である。出張というのは普通、出かけた場所で人に会ってくる、人と話してくる、会議してくることである。出かけた先で何かを観察して終わり、写真を撮って終わりという出張ということはまずない。
聴覚障害者は普段の業務から「耳学問」という手段をもたない。聴者なら自然に耳に入る、意識しなくとも覚えてゆくことを知らないままでいる。仕事というのはたいてい人を通して、人を介して身に付けてゆくものだが、聴覚障害者はその機会に恵まれない。日常業務でも、また、出張や研修といった機会においても、新しいこととの出会いが限られている。職場で年数を重ねてゆくとき、経験の蓄積がその人の大きな武器になるものだが、聴覚障害者の場合、こうした研修や出張ひとつとっても経験の乏しさゆえに不安が大きくなる。
「機会の平等」というが、費用面や手続き面、通訳者の人材供給面等を考えるとすんなり平等ということは難しい。論を進めて、平等以上に、聴覚障害者には積極的な情報提供機会がなされ、優先的に研修機会が与えられるくらいになってほしい。以前にも記したが、僕の知る聴覚障害者にはすぐれた能力を有しているろう者たちが多い。これまで仕事してきた、また、普段、一緒に仕事している聴者と比べて遜色があるわけでなく、むしろ、はるかにすぐれていると思うことが多い。通訳者の措置には費用が伴うけれども、聴覚障害者も社会で有用な人事となれるよう、その有している能力を活かせるよう、社会の理解が進むことを願いたい。
2004-02-22









