「意見言えずにもどかしさも」

昨日の日経新聞(2007/12/09)、小さな記事の見出しも目に飛び込んでくる。

東京地裁が、裁判員裁判に欠員が出た場合の補欠として選任される“補充”裁判員を入れて模擬裁判を試行した。裁判員は証人に尋問したり被告人に質問したりできるが、補充裁判員には認められない。

進んで意見を言えず、ほとんど聞いているだけのため、補充裁判員役を務めた主婦は「話したい衝動にかられ、もどかしさを感じた場面もあった」と感想を語った。

これは仕事にしろ、プライベートな場面にしろ、誰もがそういうケースに置かれたら頷けることと思うけれど、この「話したい衝動」、「もどかしさを感じる」というのが、まさに僕らがいつも味わっていること。

目の前で何か確実に議論なりの意思決定過程が進んでいるのが分かっていても、ごく時にはその断片を知ることができても、きこえないと自分の意見を表明する機がない(タイミング的にも)、加われない。常に胸に何かがつかえたままの、消化不良な気持ちがくすぶっている。

さて、裁判員制度に障害者は加われるの? 特に口頭尋問で審理の進んでゆく裁判という場で、そもそも情報の届かない聴覚障害者が加わる場合は?

各地で対策が検討されているようだ。もちろん、市民の視点が求められている趣旨なのだから、障害者という理由で排除されることはない。

ただまあ、それは特殊な場のことで、制度が大切なことに違いないけれど、もっと現実的に求めたいのは、意見とか主張とかいうほど大がかりなものじゃないんだ。

固い会議の場でなく、ちょっと複数の(最低限、二人以上の)者で会話を交わすときの、「うんうん」、「そうそう」と同意できるかどうか。それだってなくてはならない、ノンバーバル(非言語)でも大切な意思表示であり、意思確認。

「そうそう」ともいえない、輪に加われない、存在が認められていないのは、まるで木偶の坊か透明人間。



 

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