残存聴力

大きなカベ

一年中といってしまえばそれまでだが、凹むことの多い日々。最近思うのは・・・

聴覚障害(者)は目に見えない障害なので、障害の程度(レベル)による差も理解されにくい。同じ聴覚障害者でも、自分のように全くきこえない(聾)のは少数で、多くは残存聴力を有する難聴者(この程度がまた幅広いけれど)。

他の障害のように、目で見て困難度や不便度が分かりやすいということのない分、余計に聴覚障害というだけで一緒くたにされてしまいがちなのだけれど、多少でも聴力が残っているのとそうでないのとでは全然違って、比べられる方としてはしんどいものがある。

残存聴力があれば、補聴器を利用して何とか会話の成り立つ難聴者も多い。1対1でゆっくり喋る等してコミュニケーションが通じれば、相手方(多くは聴者)も随分と楽だろう。片や、同じ聴覚障害者といっても、全く音声の届かない、聴力のない(=医学的に聾の)者には、音声によるコミュニケーションを諦めて筆談等の代替手段に依ることとなる。

一般的には(手話は特殊であるし、身振りも限度があるから)筆談というケースが多くなるが、しかし、筆談は手間のかかる分、それだけで伝えられる情報量が激減する(統計はないが、感覚的に10分の1~100分の1以上といったところ)。筆談を求めて、返ってきた(書かれた)言葉は数文字のみ、ということは同障の者にはしょっちゅう味わう悲哀だろう。

そもそも筆談にたどり着くケース自体の方がそれ以上にわずかな確率だ(感覚的に軽く100分の1以上)。余程の必要に迫られるか、切羽詰まらない限り、聴覚障害者相手に好んで筆談をする人は多くない。

これは仕事でも普段の場でも、人が複数(集団)いれば聴者はまず、同じ会話のできる聴者同士でコミュニケーションを図る。難聴者でも少し配慮して伝わるなら、その相手を選ぶ。それらに対して、紙にペン、というのは相当に心理的な抵抗(壁)が大きい。やはり、口で話すのと、ペンを持つのとでは手段の違いといって済ませられないくらいに、聴者側の意識やコミュニケーションの本質にも影響してくる。── ということを、受ける側は痛いほどに感じさせられる。

僕自身も残存聴力のあった時期があるからよく分かるのだが、やはり、多少でも聴力のある方がいい。きこえる、きこえないの2軸対立でなく、最近は、こうして同じ聴覚障害者でも残存聴力ある聴覚障害者の利点を意識させられる。

ふと思うのは、例えばパラリンピックなどでは上肢・下肢障害や視覚障害者などはその障害の程度により区分(クラス)分けされている。一方、聴覚障害の場合、仕事でも日常生活でも社会集団の中で(人の交わりの中で)生きること自体が障害のもたらす困難との格闘なのだけれど、そこでの努力や奮闘が評価されることもなければ、その障害の程度に応じたハンディやルールや、が顧みられることもない。

夏の夕暮れ
夏の夕暮れ

 

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