映画「リード・マイ・リップス」を観て 3

ヒロインは難聴というけれど

リード・マイ・リップス

この映画の中の「難聴」と「補聴器」の必要性に疑問があることを述べている。自分でも予定以上に長くなってきているのだが、今回こそは最終回──。

難聴や補聴器の描かれ方に釈然としない思いを持つのは、カルラの難聴の(障害の)度合いが軽いからでもある。 カルラは電話ができる。補聴器をつければ日常会話にもほとんど支障はない。誰かの手助けを必要とするわけでもなく、仕事も全く普通に行っている。驚くことに彼女の任務は、社長秘書である。普通、きこえない人間には絶対にできない職種で、聴覚障害者にありがちな単純作業とは対極の職種である。 それゆえ、観客も彼女が難聴ということを実感しにくい。とりたてて意識しようがない。

電話ができて、一見するとコミュニケーションに苦労もないカルラのような女性をして、「ヒロインが難聴女性」というのは、日本ではちょっと考えにくい感覚である。 これは、あるいは、日本という国が聴覚障害の認定基準の厳しい、つまり、重度の難聴でなければ法律上の障害とはみなさない国であるせいかもしれない。 映画が始まるや、冒頭で普通に電話をこなすカルラを見てまず僕は驚かされたくらいだ。

もちろん、難聴の度合い、障害の軽重と、障害に起因する苦労や不便が比例線を描くものではない。単純に、聾だから、重度難聴だから悩みや苦労が大きく、軽度だからそれらが少ないわけでは決してない。全くきこえない聾という状態はまだ比較的、想像しやすいけれど、理解されにくい「きこえにくさ」という障害を持つ軽度難聴者の悩みも深い。周囲からは「きこえている」ものとみなされる、それがゆえに一層、緊張感やストレスも大きい。障害が軽いほど、自らの障害を受け止めること、受容することも難しくなる。他者からはうかがい知れない心理的な葛藤も大きくなる。

カルラもそれゆえだろうか、両耳に装用した補聴器を髪の毛で隠している。自身が難聴であることを周囲に積極的に明かそうとはしない。

難聴という障害を有する人間の心理

カルラは難聴ゆえのコンプレックスを抱えている。社内に親しい同僚がいるわけではなくポールが現れるまで、昼食をとるのも一人。男性社員からは女としての扱いを受けず、ブスな女とバカにされているような蔑みを感じている。

この屈折感は難聴、聴覚障害の特質をうまく言い当てている。 願わくばここをもっと掘り下げてくれるとよかった。

きこえない人間は、周囲の会話を必要以上に気にする。「きこえないのをいいことに、自分のことを悪く言っているのではないか」という被害妄想を抱きがちである。聴覚障害者にありがちではあるけれど、これは聴者にも同じことはいえるだろう。仲間内で自分だけがきくことのできない、知ることのできない立場に置かれると、誰しも不安に襲われる。自分の知らないところで勝手にものごとが進められてゆくと憤慨する。

以前も述べたけれど、「きこえない」ことは他の障害に比べてもバカにされやすい。昔ほどあからさまに「つんぼは無能」といわれることもなくなったけれど、やはりまだ社会に偏見は根強い。足が不自由で車椅子に乗る人を見て笑う人はまずいないが、きこえない人間は笑われ、からかわれやすい。きこえない人間を前にして薄ら笑いを浮かべるのは、相手が医者や教師でさえ例外でない。きこえない、話せないと低能だと決め付けられる。相手にされない。そういうことを小さな頃からずっと経験してきている。

監督が意図したのかどうか、ポールという男の出現でカルラが自信を取り戻すあたりは納得できた。 仕事はできないけれども不思議な魅力を持つ、何より自分に縁のなかった男である存在のポールという部下を得て、社内に仲間のいなかったカルラが変わってゆく。仕事のできないポールだからこそ、上司としての指示を与え、あれこれと世話を焼く必要がある。ポールの面倒をみることで自分の存在意義に気付いてゆける。ポールを利用してかつての自分の仕事を取り戻して大きな満足感も得た。そうした自信が、友人のパーティーにポールを誘うという行為に結び付いたはずだ。

これまでは難聴という障害を持つがゆえに、一歩を踏み出せなかった。 聴覚障害はコミュニケーション障害であると何度も述べている。相手を知るというスタート地点に困難を有するがゆえに、人間関係を築くのが下手なのだ。自分に自信がなくて、どうしても引っ込み思案になってしまう、自分から周囲に積極的に働きかけられない時期がある。それは、周囲が聴者の中で、自らのコンプレックスゆえに自信をもてないからである。

けれども、何かのきっかけがあれば、それを機に自信をつけることができる。 コミュニケーションの相手が出現するだけでも、自分が認められる、理解されるという大きな自信を持つことができる。ひとたび自信を持てると行動も積極的になる。

もちろんこれも聴覚障害に限ったことではなく、誰しも多かれ少なかれコンプレックスを抱えているもので、けれども、それを含めた自分を理解してくれる相手を持つと、変わるきっかけになる。カルラが難聴ゆえの屈折感、劣等感を抱えていたとしたなら、それがポールの出現によって明るくなってゆく、強くなってゆくさまには僕も大きく共感できる。もっとも、この映画でそこまで読み取る必要はないかもしれない。「難聴」という障害がほとんど前面に出てこないので、そんなことは全く意識しようもなく映画は進んでゆく。

手話も少し

いきなり補聴器が画面に現れるシーンから始まった珍しいこの映画だが、途中、一箇所だけ手話の登場したシーンがある。

友人アニーを待つ喫茶店。顔なじみらしきろう者の男性に手話で話しかけられたカルラが、やはり手話で返答する。この部分には字幕も音声も付されない。会話としての意味はなく、監督としては、ろう者と手話をも一応、画面に登場させて、カルラが聴覚障害者、難聴者であることをより強調したい意図だったろうか? 一歩進めて、僕なら、むしろカルラのような日常、手話を必要としない軽度難聴者には、「投げかけられた手話を理解できない」というシーンの方がより難聴者らしいし、難聴者の面白みを出せたと思うのだが。

逆に、ここでは手話の魅力を強く浮かび上がらせた。

実は、手話の起源は世界で最も古く聾学校の設立されたフランスにある。英語同様に一般的だと思われがちなアメリカ手話(ASL)も、フランス手話の影響を強く受けている。

世界の中でも、言語としてのフランス語は美しいことばだとよくいわれる。 美しい言語をもつ国は美しい手話をも生み出すのだろうか、僕にはこのフランス手話もまた、とても美しく感じられた。 ほんの一瞬であったけれど、クライマックスよりも何よりも、2人が手話を交わしたこのシーンが僕には最も美しく印象に残るものとなった。

今後に期待

聴覚障害者を主役とした映画で、「ろう者」でもなく「手話」でもない、「難聴」と「補聴器」という、これまで日の当たらなかった題材が取り上げられたことは非常に目新しい。今回のこの監督の試みは充分に評価できる。

補聴器や読唇術、また難聴という障害の描かれ方には大いに不満の残る作品だが、それでもこうして考える機会をもたらしてくれたことは確かで、その意味でこの映画の功績は大きい。映画としては秀作なだけに、きっと欧米はもとより、多くの国々で上映された(される)ことであろう。世界中の聴覚障害者が、難聴者がこの映画を観て声を出せば、反響が大きくなれば、次に期待できるものが大きいはずだ。


 

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