映画「リード・マイ・リップス」を観て 2

映画は秀作、されど期待はずれ

リード・マイ・リップス

今回、僕がこのマイナーな、主要都市のミニシアター系でしか上映されないフランス映画をわざわざ観ようと思ったのは、この映画が難聴の女性をヒロインにしていること、映画の中で補聴器が大きなポイントになっているらしいことを知ったからである。

ろう者の登場する映画(やテレビドラマ)は少なくない。けれども、「手話」という独自の言語を持っており、その個性を描きやすいろう者に対して、ろう者ほどの強い特色を付与しにくい難聴者は作品の題材には不向きである。また、補聴器も相当に地味な存在で、社会的に認知されているものではない。前にも述べたように、「それ」は積極的に誇示するものではなく、どちらかといえば世間では忌避されているような存在である。それらが堂々主役に踊り出るというから、大いに興味を抱いたのだが、けれども、この期待は完全に裏切られた。

前回のあらすじを読んでいただければ分かるように、「難聴」や「補聴器」という素材はほとんど意味をなしていない。監督としては、これまでの映画にないマイナーなマテリアルを使って仕立て上げたという試みに大きな満足を感じているようだが、聴覚障害を有する当事者から見れば、肩透かしの内容だった。がっかりさせられた。

カルラはポールの窃盗テクニックを利用するし、ポールはカルラの読唇術を利用する。互いが利用しあうように、監督も難聴や補聴器をうまく「利用」した。映画のつくりは僕も5つ星の評価ができるのだが、こと難聴や補聴器、読唇術といった、この映画を成り立たせようとしたはずの材料については、本質的な認識が全く置き去りにされている。監督にとって、あくまで映画のストーリー上の便利な道具として、カルラやポールがそうしたように「利用」した程度のことでしかない。

これがTVドラマなら「テレビなんだから」とムキになることもない。娯楽映画なら笑い飛ばすこともできる。でも、そうでない映画の目的には、軽重はあるにせよ、この文化的な表現手段を通して社会に訴えるもの、人生をみつめ直そうとしている部分があるはずである。比較的マイナーな洋画が、僕の知る範囲でも朝日新聞に2回、監督ヘのインタビュー記事と沢木耕太郎氏のコラム「銀の森へ」とに掲載された(映画館も朝日新聞支局の入る系列ビルだったのはそのせいだろうか?)。僕が知ったのは日経新聞の記事だった。世間はそれなりの関心を持っている。評価も概して高い。

前回は映画の良さを賞賛したが、今回は僕なりの視点で、不満を感じた点について述べてみたい。

補聴器というもの

映画は冒頭、女性主人公のカルラが補聴器をはめるシーンから始まる。

この静かなアップのシーンは悪くない。補聴器をつけるシーンなんて通常の人は見ることもないだろうから。耳というのは性的な象徴でもあるとよくいわれるから、見方によってはセクシーにもなりうる。そういえば村上春樹の以前の作品には、耳について触れた箇所の多いことも思い出した。

女性の場合、髪の毛で補聴器が隠れてしまう。だから余計に、こうして、しょっぱなで観客にこの医療装具を認識させる強いインパクトがないと、主人公が「見えない障害」の難聴を有していることを理解しにくい。

また、一度だけでは簡単に忘れられてしまうこの障害の特性を知ってのことか、何度か補聴器をつけたり外したりするシーンもある。映画ではそれに合わせて、ヴォリュームをオン/オフするという音響テクニックも使用している(らしい)。僕は確かめられなかったが、この効果のねらいも悪くない。補聴器を通してきこえる音には雑音が多い。人の話し声だけではなく、周囲のノイズも拾い集めてしまう。人間の耳は雑音の中にあっても、ききたい人の声だけをキャッチできる精巧なつくりの器官になっているのだけれど、補聴器という機械にその機能はない。映画が、単に音の「有る/無し」だけではなく、不快な雑音をも耳に入ってくる補聴器の特性まで表現できていたなら立派なものだが、どうだったのだろう。

一人で暮らすカルラは、部屋に帰ると補聴器を取り外してケースにおさめる、このシーンもうなずける。補聴器装用者が雑音から解放されるための儀式である。特にカルラのように補聴器を着ければ人との会話ができる、電話もできるというレベルの難聴者にとっては──ここが周囲からは理解されにくいけれど大切な点なのだが──補聴器を通して何とか聴き取ろうとする、聞き漏らすまいと四六時中緊張していることの精神的ストレスが非常に大きい。一人の部屋で補聴器を外すのは、窮屈な衣服を脱ぎ捨てて裸になるのにも似た快感がある。

また、補聴器は外部との接点、自分と他者とのコミュニケーションの架け橋になるものである。だから、一人の時間に補聴器は要らない。聴覚障害者は一人で暮らす限り、障害者ではないともいえる。逆にいうと、それゆえ一人の世界にこもりやすいという傾向も時にある。

けれど補聴器の積極的な理由は見当たらず

けれども、この映画における補聴器の存在は、それ以上の理由には乏しい。「補聴器」は製作者の意気込んだろう意図ほどには効果をもたらしていない。主人公のカルラが読唇術ができるために「それらしく」とってつけたような言い訳、アリバイのように思える。

<補聴器の社会的認知>と題して、以前、述べたのは新聞記事のコラムがきっかけだった。僕がこの映画を知った、今回観にいこうと思ったきっかけもこの記事ゆえである。


日経新聞<モードの方程式>で服飾史家の中野香織氏は、「偏見からの解放」と題して、この映画のストーリーを最後に触れてこう述べている。

・・・補聴器は美化もされず偏見もまとわない。映画が終わるころには観客は、補聴器のことなどとりたてて意識しなくなっている。偏見から真に解放された補聴器の、これもまた一つの理想形に見える。

この結ばれ方が僕の期待感を大きくさせたのだが、これは映画紹介によくある過剰なリップサービスのひとつに過ぎない。僕からみれば、「偏見からの解放」というより、単に補聴器が意味をなしていないだけのことである。ストーリーとして成り立つ上で、補聴器が必要な理由は見当たらない。また、補聴器が社会に、人に、どう受け止められているのかという問題をこの映画が積極的に取り扱っている訳ではない。そこに偏見の存在するしないを映画が触れているわけでも全くないのに、「偏見からの解放」というのは安易できれい事過ぎる。

カルラは補聴器をつければほぼ不自由なく会話ができる、電話もできるから、中野氏のいう「観客は補聴器のことなどとりたてて意識しなくなっている」のではなく、最初から補聴器があってもなくても観客には大差のないことなのである。 映画も素晴らしいし、中野氏のコラムもいい内容だったけれど、この強引な結び付け方にはかなりの無理があるように思う。

荒唐無稽な読唇術

続いて、読唇術について。

ポールはカルラの読唇術を使って大金をせしめようとする。前回、触れたあらすじで、この映画のクライマックスが見事なことを述べた。この映画はつまり、アイデアとしては素晴らしいこの最大のヤマ場、見せ場を有効にしたいがために読唇術が必要だったのだ。

ところが、「読唇術」はこの映画に欠かせないけれど、「難聴」と「補聴器」はどうしても必要なわけではない。読唇術のできる聴者でもよかった。ただ、「読唇術」をより有効にするために、ヒロインを「難聴」ということにし、難聴らしくさせるために「補聴器」を持ち出した。逆算的な発想である。

聴覚障害者のサイドから観ると、カルラの読唇術は荒唐無稽である。そんなに簡単に人間の唇を読んで話の内容をつかむなんてことはできない。監督には忍者が水の上を歩けるように、聴覚障害者はきこえなくても読唇できるというイメージがあったのだろうか? あくまで夢を与える映画の中の出来事、ファンタジーな世界のこと、読唇術が何よりこの映画の最大の見せ場なのだから、そう目くじら立ててはいけないのかもしれないけれど・・・。

確かに、聴覚障害者は相手の口元を見つめて会話の内容をつかもうとする。簡単な内容なら、相手の口の形に慣れれば、それなりに読むことはできる。 聴覚障害者相手のコミュニケーションでは、きちんと正対し、口を大きく開けて、ややゆっくり話すといった配慮をとれば分かりやすい。そうした配慮があれば、何とか理解できるといった程度である。人によって得意不得意もある。 配慮してくれても分かるのは断片的に、である。どうしても限界はある

コミュニケーション手段のひとつとしての読話

読唇、読話というのは、「読む」というより「推測する」技術である。同じ口の形で違う言葉、単語は無数にある。その中から、今話されている環境や条件を考慮して、文脈の中でのおおよその見当をつける、頭の中で結び付ける作業である。例えるなら、文字がかすれている、ところどころはがれ落ちているページの文章を解読するような試みである。かなり頭を使う作業である。集中力を要する、目も頭も非常に疲れる行為である。文字なら何度も繰り返し見ることができるが、話し言葉は話された瞬間に消えてゆく。相手の唇の動きは一度しか見るチャンスはない。まばたきの瞬間にさえも音声言語は流れてゆく。

短い単語やワンフレーズ程度ならよくても、延々続くおしゃべりを読み取ること(頭の中での推測の繰り返し)は、至難な技である。自分に向かって話されているのではない、他人同士の延々続くおしゃべりを盗み読むなんてことはまずできない。

そもそも簡単に読唇術ができれば、聴覚障害者に苦労はない。カルラも補聴器を使わずにすむ。

付け加えると、たいていの聴覚障害者にとって読唇(読話)は、それ単独で有効になり得るものではなく、コミュニケーションの一つの大切な手段である。補聴器を装用すれば幾分きこえる難聴者が、きこえを補うものとして、あるいはろう者、難聴者ともに手話を読み取るときの補助としての効果が大きい。マスクをつけられると理解できないけれど、口元をみつめることで耳にきこえてくる言葉、また相手の手話をより理解できるようになる。互いに補い合うという併用の効果が大きい。なくてはならない、大きな補助である。

だから、聴覚障害者を相手にしたとき、相手がきこえなくても、「話しかける」行為そのものは非常に重要である。よく、ろう者を相手にしたとき、パントマイムよろしく口元を固く結んでボディランゲージしようとする、筆談する人がいるけれど、そうではない。

きこえていなくても、聴覚障害者は相手の口元を見つめて必死に理解しようとしている。ろう者同士の会話も、手話だけで相手に情報を伝えているのではなく、自らの口の動きも相手に提供しているのである。手話通訳者にとっても、ろう者に読み取りやすいような口の動きを添えることが大切な通訳技術である。 僕なんて筆談をしてもらうときでさえ、相手がまず適度な文節を話してから(口を動かしてから)書いてもらうと分かりやすい。推測の範囲が広がるから、相手の筆談の負担も少なくなる。


*もう1回続く──。


 

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