映画「名もなく貧しく美しく」を観て
ろう者を描いた名作
時は終戦前の空襲で始まり、戦後を迎える。高峰秀子演ずるろうの女性が、同じろうの男性(小林佳樹)と結婚し、日々の生活を過ごすために働くこと、また、生まれた子どもを育てることに苦難の連続を味わわせられながら、戦後の日本を生きてゆくストーリーである。日本でろう者を正面から取り上げたのは初めての映画だろうか?
まず今、僕らがこの映画を観て思うのは、戦後の日本(東京)の生活ぶりが分かるということ。モノクロ映画の画面に流れる映像へのノスタルジー(といっては失礼かもしれないが)は、新人類世代、バブル世代の僕らにも届いてくる。40年前の作品を今もまだこうしてVTRで観ることができるのも、素晴らしい名作ゆえである。
※1961年東宝作品
「普通の人に負けないように」
2人がろう学校の同窓会で出会い、交際を経て結婚に至るとき、そして、内職用のミシンを弟に奪われて絶望し、弟ともども一緒に死のうと思いつめた秋子を追ったときの二度、秋子に向けて道夫が強く説く──「僕たちは特別なのだから、2人で助け合って、普通の人に負けないようにがんばらないといけません」。この、「普通の人に負けないように」というセリフ、この映画のポイントであり、当時のろう者もきっと強く共感し、大いに励まされたことだろう。今でも涙を誘うシーンである。
対して今のろう者はどうだろうか? 今では随分とろう者への社会の認知も進み、不自由さも軽減されてきたから、このセリフにはあるいはさほどの思いはよぎらないかもしれない。
もちろん、今でも、障害者には多かれ少なかれ、「健常者に負けないように」と思う心理面があることは否定できない。親が、教師がそうやって励ますことが多いだろう。本人にも「負けないように」という思いが、いい意味での成長の発奮材料になることは間違いない。それもひとつの生き方として今後もずっと残るであろうと同時に、ただ、今はどちらかというと、「勝つ、負ける」という発想ではなく、障害は障害として認め、どう健常者と共存してゆくかを子どもに教えるかという考えに変わってきていると思う。「普通の」人、「普通でない」人ということの意識を持ってしまう時点で劣等感も生じてしまう。
そうはいえ、やはり、とりわけ聴覚障害は社会の中で生きてゆく上で致命的な障害である。そもそも、ものごころつかない幼少時から、言葉を覚えてゆく過程で血と涙の連続なのだ。成長しても人間として扱われないような冷たい仕打ちを味わうことは数知れない。他者と交わることが、すなわち、コミュニケーションを前提としている社会の中で、自信をなくすようなつらい思いを味わうことは、これから先どれだけ社会が変わっても、なくならないだろう。自信を持って生きてゆくには、どこかで「負けないように」という芯の強さが必要かもしれない。
ろうであることと「倖せ」であること
2人に生まれた子どもの一郎が成長してゆく後半から、俄然と面白くなる。 ろうの両親を最初は疎ましく思い、避け、拒絶さえしていた一郎が、やがて、変わってゆく。(ろうの両親を持つゆえ)これまでは友達とけんかばかりしていた、「たまには友達を連れて来なさい」と言っても決してそうしなかった一郎が、あるとき友達を家に連れて来ている。初めてのことに、秋子は家に帰って一郎の友達の姿を見るや、即座に逃げ出してしまう。「私なんかがいたら恥ずかしいでしょう」。一郎を気遣ったつもりの秋子に、「紹介しようと思って連れて来たんだ」と、親を受け入れ、素直になった一郎の成長を示すシーン。
ろう者を親に持つ家庭で必ずある、よくあることだときく。また、ラストシーンで一郎に語らせる──「以前、僕は、両親がろうあ者なのを恥ずかしく思っていましたが、今ではちっともそう思いません」。それまでが徹底的に生意気で嫌な、秋子を不憫に思わせる子どもとして設定されていた分、観る者の心をなごませて微笑ましい。
物心ついた一郎が、社会の中でろうの両親の置かれている状況に気付いてゆく、そのシーンが最も印象的であった。
洋服の仕立てを内職とする秋子に、「母さんはだまされている。ろうだから利用されているんだ」「母さんが働けば働くほど洋服屋が儲かる。いつも母さんは損ばかりしている」と。そして、「母さんの腕はいいですか?」「母さんがいなくなったら困りますか?」「仕立て代、他ではもっと高いです」と洋服屋にも正面からはむかう。
このシーン、僕自身も子どもの頃から(今にいたっても)両親に対してずっと思うことだ。僕の両親はろうではないが、母も裁縫の仕事に就いていた。時には夜のパートなども掛け持ちながらどうにか生活できていたとき、子ども心にどうみても両親は損ばかりしている、どうして、もっとうまく、要領よく生きてゆけないのか、と苛立たしく思えていた。
でも、社会はそういうものなのだと今では思う。世の中には世渡りのうまいものとそうでない者とがいる。その差は歴然としている。愚鈍な者はだまされ、搾取されるようにできている。けれども、それと幸せとはまた別のことでもある。
秋子の母は、家を出てバーでマダムとして働き、「お金が全て」という姉・信子に会ってつぶやく。「世の中は二人でも生きていけない人間と、一人で気ままに生きてる人間がいるんだね」。そしてまた、憤慨する一郎には笑顔で穏やかに諭す──「いいじゃないか。それでも、こうしてご飯が食べられれば」と。道夫もまた別に秋子に言う──「僕たちは十年かかってやっと一人前の夫婦になった」「耳がきこえないから、神様が倖せにしてくれたのかもしれません」。
自分がろうであることに苦しみ、子育てに自信が持てずに苦しみながら生きてゆく秋子が、母と道夫のやさしくあたたかい思いの中でなだめ励まされてゆく。道夫や母のことばには、この世を生きてゆく上での哲学的な箴言が含まれている。
まさにタイトルどおり、「名もなく貧しく」とも「美しい」生き方である。今観ても決して色褪せない、むしろ今観ることにこそ、大きな価値のある映画だ。
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comment
「名もなく貧しく美しく」の小林圭樹さんと高峰秀子さんの顔がまだうかんできます。
どこの繁華街か、靴磨きをなさる場面がありました。
細かいことが判らなく為りましたが、あらためてこのサイトで拝読してよく理解できました。
有り難う御座いました。
コメントありがとうございます。
大女優の高峰秀子さんにとって、この作品は代表作でもそれほどのものでもないようですが、私には個人的に唯一知る映画です。
昨年のうちに、小林佳樹さんに続けて亡くなられたのも映画をこえた強い縁があったのかなという気がします。
私にとっても、この映画のよさをあらためて思い出す機会となりました。