見えない障害 難聴

最近、増えてきた聴覚障害関連記事

最近、新聞記事に聴覚障害(者)への理解を啓発してくれる記事が増えてきている。 先日、「聴覚障害者カフェ」(読売新聞)と「補聴器の社会的認知」(日経新聞)についての記事をこのサイトでも紹介したところ、今回また時をおかずして、再び読売新聞に「見えない障害 難聴」と題した記事が連載された。

内容は僕がこれまでにこの「音のない世界で」で述べてきたことにもほぼ同じ内容になっている。

  • 「見えない障害」ゆえに不便に気付かれにくいこと
  • 聴覚障害者がその能力を仕事に活かしにくいこと
  • とりわけ電話のできないことが職業選択の大きな制約になっていること
  • 聴覚障害がコミュニケーション障害であり、人間関係をうまく築けず、孤独に陥りやすいこと
  • 多様化し、進歩してきている補聴器だが、必ずしも聴覚障害者に効果のある医療用具ではないこと
  • ・・・

聴覚障害者カフェへの反響が大きかったことに読売新聞社が手応えを感じたのかどうか、まるで、僕のこのページも参考にされたのではないかと思うくらいに(そんなことはなかろうけれど)、今回掲載されている内容は多くの聴覚障害者が実際に毎日経験していること、日々まさにそう感じていることだ。僕の県立大学での講義というのも大体、こういったことを述べてきた。

社会の成熟

これまでにもこうした記事がなかった訳ではない。単発的には他の一般紙も含めて掲載されてきた。けれども、今回のように連日、続けての連載形式というのは珍しい。ここまで踏み込んでじっくりと解説してくれたことに、新聞社の本気度が伝わってくる。

また、これまではどちらかというと「障害はあるけれど頑張っています」といった美談を紹介する形の内容が多かった。いわゆる、マスコミや行政の好む、「障害を乗り越えて」なる決まり文句。それはそれで健常者の感動を誘い、同障者を大いに励ますことである。僕自身、そういった内容が実は大好きである。

けれども、一時的にある一面のみを見れば「障害を乗り越えた」ようにとらえられることであっても、現実的には、毎日の生活の中で障害を越えることはできない。「乗り越える」のではなく、「障害とともに」生きてゆく。一生、障害とつきあってゆく。

そのとき、障害者が「障害とともに生きる」とき、周囲が、社会が、どういうサポートをとることができるのか。今回の記事はその問いを投げかけると同時に、読者自身に考えさせてくれるようになっている。そうした視点が新聞記事により提供されるようになったことが、社会の成熟を表しているといっていいのではないか。

広がる可能性

この記事にも触れられているが、文字情報でコミュニケーションのできるネットは、聴覚障害者に大きな恩恵をもたらしている。例えば、それは、僕のこのサイトのような小さな世界にもいえることで、少しの営み、働きかけであっても大きな力のはね返ってくることがある。羊の本棚のページに収録した『きこえない人ときこえる人』について、関心を抱いて読んでくれた聴者のいることなど、本当に嬉しいことだ。僕自身が大きく感激させられ、勇気付けられた。こうした予期しなかった効果が僕自身にも還元されてくる。

聴覚障害は決して新しい問題というわけではない。けれども、今回のタイトルどおり「見えない障害」ゆえ、これまでは一般に考えられる機会が少なかったことだと思う。今回、影響力の大きい媒体を持つ全国紙で真剣に取り上げてくれた読売新聞社の好意にあらためて感謝し、繰り返しになるけれど、『きこえない人ときこえる人』で強調されている著者のことばを再び引用したい。

きこえないこと――それは何よりもまず、かなりの情報の喪失であり、それと結びついた孤独です。情報の不足と孤独の悲劇を避けることは、きこえない人へのあなた方やわれわれの態度、そして力相応の支援をしようとする私たち自身の姿勢に、多くの部分依存しているのです。


「見えない障害 難聴」

  1. 周囲の誤解がつらい (2003年9月30日付け読売新聞)
  2. 職探しのハンデ大きく (2003年10月1日付け読売新聞)
  3. 認定 高いハードル (2003年10月2日付け読売新聞)
  4. 難しい補聴器選び (2003年10月3日付け読売新聞)
  5. 気遣いのある社会に (2003年10月4日付け読売新聞)

 

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