県立大学講義を終えて

県立大学で手話講義の一コマとして「難聴者について」を講義する。

お世話になっている手話通訳者の柴田さんに依頼されて3年目になるものだ。 今年はこのところ業務や研修に追われて時間がなかったから、原稿や資料は昨年のをそのまま使ったり、と準備も等閑という感じで臨んでしまった事は否めない。3年目ともなると、緊張感に欠ける面もあった。僕は年にたった1回でさえ、こう感じるのだから、大学教授というのも大変なのだろう。

正直なもので、昨年のように入念な準備をしたかどうかは、そのまま、きいている側の学生の態度に見て取ることができる。自分でも、淡々と説明しているだけで、迫力が出せないな、ということが感じられていた。

しかし、それでいいのかもしれない、と今の僕は思う。今の僕は少し、八方塞がりの、心の晴れない状態であって、そんなときに自分が「いい話ができた」と満足してもあまり意味はない。どれほどいい話ができても、今の僕は自分に満足できないだろう。

講義でも触れたことだが、ただ自分が一方的に話すこと、表現することの限界を強く感じる。目の前の学生達に話すこと、訴えることはできても、きくことはできない自分。ひとりよがりな行為といってしまえばそうだ。

市民手話講座とは違って、福祉の現場に出ていこうとする社会福祉学部の学生達にとっては、手話そのものや手話表現という技術的なものよりも、手話を使う聴覚障害者の生活、実態を知ることの方にこそ意味がある。

聴覚障害とは? 聴覚障害者とは? テキストには載っていない、教授の話からも出てこない、当事者の生の声が必要なのだ。柴田さんによれば、これらを整理して説明できる僕が、この意味で最も適しているのだという。昨年も、手話の講義を終えての学生のレポートでは、僕の話が最も印象に残るものだったという。

しかし、昨年も触れたように、自分がまさに一人の当事者である「聴覚障害者」が、どんなことで苦しみ、不便やつらさを味わっているか、についてを人の前で話すことは気持ちのいいものでは決してない。それを訴えようとすればするほど、力を込めることになる。あえて言葉にしないで済むはずの、あるいはしない方がよいはずのネガティブな思想を益々強く自分に打ち込むことにもなってしまうからである。

障害を持って生きてゆくとき、ひとつのさわやかな生き方は、多少の不便はあるけれど、それをいちいち口に出したりせずに(不満など言わずに)、軽やかに生きてゆこうとする生き方である。僕自身、どちらかといえば、その考え方が強い。

障害を前面に出せば出すほど、疎んじられることがこの世には多い。多くの障害者もそれを経験的に知っている。といって、話さなければ、絶対に伝わらないのが、「目に見えない障害」である聴覚障害の特徴なのである。

自分で積極的に言いたくないから、言葉にして伝えることを避けたいという思いと、それでありながら、いかにして自分もいやな思いをせずに、人に理解を求め、また、自分の成長の糧にしてゆけるのか、その技術を見つけてゆくのも両者のバランスをどこに見つけるのか、あくまでも僕にとっての課題である。


 

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