壁の向こうに 2

本当の壁

Aさん

私は耳が聞こえないので、健聴者とは差があって、ずっと低い立場にいる。そう思います。健聴者との差はあると思います。


(野球を通して自信は持てましたか?)


自信は持てました。


(その自信は役に立った?)


役に立ってません。健聴者とはやはり差を感じます。それはずっとそのまま。変わりません。仕方がないと思います。

Bさん

いろいろと戦ってきて壁を越えたということなんですけど、社会の場合は聴覚障害者の壁はかなり厚いですね。

元監督

当時も、壁は破ったけどもそれは本当の壁ではなかったと思うんですね。やはり本当の壁というのは社会の壁、その壁を乗り越えることが出来なかった。その壁が厚くてなかなか、力となって乗り越えることが出来なかった。

番組は「遥かなる甲子園」の主人公となった沖縄県北城ろう学校のかつての球児達のその後、社会に出てからの、23年後の今を取り上げたものである。原作(ドキュメンタリー)、漫画、映画・・・は世の中の多くを感動させた。今では補聴器をつけた難聴の投手がプロ野球で活躍するまでになった。けれども、甲子園を目指そうとした、野球を頑張った高校時代と違い、社会に出るとそうもゆかなかった。

世間が彼らの活躍を「障害児の美談」としてとらえ感動に浸っていたとき、高校を卒業した彼らの前にはもっと深刻な「壁」がたちふさがっていた。その後、世間がすっかり忘れた20年後の今もなお、果てしない壁にぶつかり、とまどい、苦しみ続けている。

これは彼ら北城ろう学校ナインだけでなく、多くの、間違いなく全ての、ろう者、聴覚障害者に共通することである。誰を取り上げても、そこには耳がきこえないゆえの壁――悲しみ、悩み、苦しみ・・・――がある。元球児らは、「遥かなる甲子園」が人々の胸を打っただけに、彼らの「今」の姿、現実の厳しさがより強く人々に訴えかけてくる。

番組では、3人の元ナイン、元監督、ナインの母親、また、地元のろうあ協会長らが登場し、それぞれに感じる壁の厚さを語っていた。企画側の意図である、どちらかというとネガティブな発言がテレビという恐ろしいメディアに乗って全国に流されるのは、本人らに本意でないところもあると思う。おそらく、他のナインには、23年も経って、もうほっといてくれ、という気持ちで出演を拒否されたかもしれない。そうであってもおかしくない。だから、まずは、テレビに登場してくれた、勇気のある3人に敬意を示したい。

主体性

このホームページでも同じことを繰り返しているように、コミュニケーション面にハンディを持つ聴覚障害者にとって、仕事をする上で、日々の職場での苦悩は大きい。


Bさん

きこえる人間同士で話し合いをして、決まった結果だけを知らせる。コミュニケーションが進まないから、"きこえない人は後で"という考え方。

後で知らされればまだ、いい方かもしれない(あるいは後で知るくらいなら、最初から知らない方がいい、というケースも多い)。


Cさんの会社の上司(専務)

(聴覚障害者のCさんに)細かい指示をすると難しい。だから「これはこうしなさい」という二者択一のことだけ選ばせるようにします。

それがいいことだと信じている姿に唖然とさせられるのだが、前の職場を長い間、我慢した末に解雇された、Cさんにとっては、雇ってもらえただけでも御の字。周囲がとやかく非難もできないのかもしれない。けれども、そこには、聴覚障害者の主体性がない。一人の人間として疑問を抱き、意見をはさみ、アイデアを発し・・・という、人としての当然のことができない。

仕事に限らず、例えば、遊びでも何でも然り。旅行に行くとき、「どこに行こう、何をしよう、何を食べよう・・・」と、皆でわいわいがやがや、計画を立てるときが一番、楽しい時間である。その過程をすっ飛ばして、結果だけ与えられても面白くないのと同じ。

高校時代は、「ろう学校でも挑戦の資格を」という目の前にはっきりとした課題があった。同じ障害を持つ者同士で壁にあたることができた。けれども、社会に出ると、周囲が全員、聴者の職場の中に1人で放り込まれる。身を寄せ合う仲間もいない。「きこえない」ことは、聴者なら自然に耳に入ってくるはずの情報が分からず、状況がつかめない、知識も身に付けてゆけないことである。仕事を通して人は成長してゆくものだが、その可能性も閉ざされがちだ。何気ない雑談も分からず、談笑の輪にも加われない。

壁の向こうはあるのか

番組では、他にも、彼らが1学年だけの特別なろう学校であった(先輩、後輩がいなかった)こと、在学中、口話教育だけで手話を身に付けられなかったこと、それゆえに家族間でのコミュニケーションさえも充分でないこと・・・等の多くの問題を取り上げている。30分枠の番組で、少々、焦点が絞りきれないくらいに、聴覚障害者の抱える様々な問題を突き付けている。


彼らの前には様々ないくつもの「壁」が待っていました。

「壁」とは何なのでしょう? 「壁」はなぜできるのでしょう?

「壁」の向こうにどんな景色を描くのでしょう?


ナレーションの最後はこう締めくくられている。「あれ、何だったの?」と拍子抜けするような終わり方である。結局、他人事のように、突き放していて、無責任な気もする。「「壁」の向こうにどんな景色を描くのでしょう?」なんて、これも結局、美談ならぬ「美しい」フレーズで終わっているだけという気もする。問題提起だけで終わってしまっている。問題提起にも意義はあるが、全国ネットで流れる番組なら、元ナインの意見をきいて、多少は企画した聴者の側の、制作者側なりの考えも示してほしかった。問題提起だけなら、全国各地で、聴覚障害者自身が各自の職場で、地域で、また、組織された団体としても何度も訴えていること。

僕自身、いざ、こうして記してゆくと、やはり、この問題はあまりにヘビーである。ナインが卒業後23年経っても苦しんでいる現実。さらにこの先、何十年、ある日、突然、「壁」がなくなるわけでもないこと。「きこえない」者にとって、Aさんに「仕方ない」と言わせる無力感。そもそも「壁の向こう」があるのかどうか・・・。ここでもっともらしい結論を出すのも、到底、無理なことである。まとまりのない形にとどまってしまうことを許して欲しい。このページを読んでもらえて反響があれば、また、考えてみたいとは思う。

この番組はどうも、昨年12月にまず、沖縄だけで放映されたものが、好評だったからでないだろうか、元ナインや監督の発言など、そのときの映像を利用しつつ、少し、編集の手を加えて、今回、全国ネットで再度、流されたものではないかと思う。だとすると、ナレーションの終わり方も続きを予言しているのかもしれない。是非、期待したい。

ところで、最近、特にブログで、ろう者、難聴者が自らの思いを外に向けて発信している。軽さ、楽しさが支持されるブログでは、悩みやつらいこと・・・などのネガティブな側面、本音は現れにくいのだけれど、でも、中には、ストレートに思いが述べられているものがある。自分の弱みやつらさといった、本音の吐露されているものもある。この障害のもつ独特の苦しみ、悲しみに同意し、共感し、でも、それに立ち向かってがんばっている姿に励まされる。こうした新しい方法でも「壁」の模索は増えてゆくと思う。


 

  Related Entries


Message

メールアドレスが公開されることはありません。