人権学習講演会

紀宮様結婚式の日に

依頼を受けて小学校で講演を行ってきた。

前回、講演はもうこりごり、と書いたものの、それより以前に、例によって、頭の上がらない綾城さんからの依頼とあっては断れなかった。

小学校といっても子ども達相手ではなく、PTAが主催する人権学習講演会なるもので、保護者や教員、地域の民生委員の方々を相手にしてである。題目は何でもいい、とのことで「聴覚障害者として思うこと」で話をさせていただいた。デフリンピックの自慢話(にもならない)が求められているとは思えないので、普段、健常者には知りがたい聴覚障害についての一般的な話となった。必然的に、明るく面白い話ばかりとはゆかない。

実は、半年前、頼まれたときに、こちらで日時を選べるようになっていたのだが、その時にはまさかこの日が紀宮様の結婚式だとは頭が回らず・・・。僕のせいで(^^;)、日本中が祝福するおめでたい日(の披露宴の最中、早く家でTVでも見たいだろう時)に、寒い体育館で冷たい話をきく羽目になった方々には申し訳なさでいっぱいである(・・・と伝えたところが一番、受けた)。

打ち合わせと本番とで、二度、年休をとる。正直なところ、全く気の乗らない、引き受けたくない講演にわざわざ年休を使って・・・という気にもなってはいた。貴重な年休はもっと有意義なことに使いたいが。おまけに、ただでさえ滞っている仕事は益々、遅れている。考えていた以上に進まない。本当にまずい時期に引き受けてしまったと深く悔いたが、でも、話の方は精一杯、させていただいた。

保護者、先生、地域の方々、議員の先生等、立場の違う方が僕の話をどう受け止めていただけたか。それぞれの立場で、どうしても「こういう話をしてほしい」という先入観があったんじゃないか。いい意味でその先入観を裏切ったか、期待はずれだったか。

授業参観で感じたこと

それはともかく、僕には講演の前に見学させてもらった授業参観が非常に面白かった。学校という場所自体、普段、接することのない別世界である。その上、よくいわれるように、校長さえ各クラスの授業状況には立ち入れない、普段の教室は担任教員だけが独占する空間である。授業参観という性格上、よそ行き用の面があったろうにしても、見る側からすると新鮮であった。この意味では、僕も年休を取らねば得られないような刺激であった。

農村部ゆえ1学年1クラスの小規模校。少ない学年は1クラスがわずかに十数名。急速に進む少子化、校内暴力の低年齢化、変質者の犠牲になる児童、教員の側も破廉恥な不祥事の後を絶たない質の低下、等々、近年の教育環境のおどろおどろしさに言いようのない不安、不気味さを感じるが、ちょっと見た限りでは、農村部ゆえ、この学校ののどかさは、一昔前の学校の良さが残っているようにも思えた。

1、2年生の低学年クラスは子ども達の表情がとてもいい。まだあどけない幼児の、天使のような輝きがある。3年生にもなると一気に学習レベルも進むようで、聾唖者(と漢字で板書されていた)とのコミュニケーションを考えていたのには驚いた。6年生はいじめの問題だったのだろうか。いじめられる側の気持ちを皆で考えているようだった。耳がきこえない、きこえにくいと、それだけでいじめられやすいのが事実でもあるし、たとえいじめがなくても、話の輪に入りづらく孤立しがちという似た状況におかれやすいのが聴覚障害者だなぁとも感じた。

障害児学級で「はだ色ってどんな色?」と考えていたのにも軽い衝撃を受けた。僕らの古い年代(だけではないと思うけど)は、「はだ色」とは、色鉛筆に区分されているとおりで信じて疑わなかった。でも、確かに、人種が違えば、はだいろも違う。

それから、4年生か5年生のクラスの壁に児童の一言が寄せ書き的に書かれていたものが壁に貼られていた。その中に「すべてを失ってもまたはじめからやり直せばいい」というのがあった。小学生でこんなに哲学的な考えができるものか・・・と随分、感心させられた。実は今、僕も仕事で同じ状況にあって、全てをやり返しているところなのである。しかも繰り返し・・・(^^;)。

ただ無論、人生はやり直せない。齢を重ねるごとに色んなものを失ってゆきながらも、やり直しのきかない人生を生きざるを得ない。未だ人生を10年も生きていないだろう子ども達なら、まだ充分、やり直せる無限の可能性がまぶしい。

こうして、1クラス5分前後、と駆け足で回っただけなので各授業の目的等、全ては分からなかったが、どれも考えさせられるものだった。実に多くの示唆を得られた。

障害者と芸術

これも4年生か5年生のクラスだったと思う。NHK総合の「クローズアップ現代」(だったと思う)で以前、放映された全盲のピアニスト梯剛之(かけはしたけし)さんの録画を見せていた。全盲の人が、特に音楽分野で活躍されている例は割とよくきく。

音楽は人の心を震わせる、感動させるのにすぐれて直接的・普遍的な芸術である。「音楽はこの世の最も素晴らしい芸術である」「音楽のない生活は考えられない」というくらいに。これは僕の常々、感じていることなのだが、視覚障害者は周囲の物音に深く耳を澄まし、また、人の話にじっと耳を傾けることができるゆえに、いわゆる「賢さ」、「聡明さ」を備えた人が多いように思う。聴覚が研ぎ澄まされる分、音楽面での活躍もうなずける。

一方、聾者の場合、もちろんながら音楽面での活躍は難しい。この点、例えば、スポーツであれば、それも人を充分に感動させる。聾者、聴覚障害者もスポーツ分野では聴者に負けず活躍し、人の心に訴える。プロ野球でも今年、入団したばかりの重度難聴の投手が活躍して注目を集めた。

あらためて述べるまでもないが、芸術は人の心を豊かにする。感性を響かせる。聾者の場合、音楽方面は無理でも、美術、演劇、文学等の分野でなら活躍も可能である。特に演劇方面では、表情豊かな聾者の演技力は素晴らしいものを有している。今でも既に美術、演劇等の分野で活躍している聾者は多いが、今後はもっと多く、これら芸術分野で人の心を豊かにする聾者が現れてほしいものだと思えた。このクラスで担任の先生が、梯さんの映像を見せて、児童に何を考えさせようとしたのかは分からなかったが、僕には、ふと、そんな思いが頭をよぎった。

聴覚に訴える音楽に比べると、美術や文学といったジャンルは、相手の能動性を強く必要とする点で普遍性を得にくい困難さはあろうが、努力で越えてゆける聾者が大勢、出てほしい。僕も、今、走っていることなど年齢的な制約を受けやすいものだけに、今後は、その才能の無さは自覚しつつも、芸術面の能力を少しでも引き出してゆけないものかと思う。全盲のピアニストの映像(字幕がない当時のものなので内容は全く分からなかったが)を見ながら、そんなことを考えてもみた。

講演する機会を与えられたから、こうして面白いことも考えることが出来た。その点は有意義であったと感謝している。さすがにもう最後。


 

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