生きることと考えること

「自分とは一体何者か?」を考えるとき、一番、思うことが、自分はきこえない人間であるということ。 自分の意識の中で、自分という存在を最も決定づけることが、「きこえない」という身体的事実である。

世界は音声言語であふれ、そのことが当然の前提として成り立っている。コミュニケーションによって、人は集団に属し、社会に交わって生きる。

きこえない僕は、現実世界できこえないゆえの窮屈さを感じることがあるし、また、きこえないながらも、あるいは、それだからこその豊かさを感じることもある。例えば、今、僕はほぼ毎日、日記(のようなもの)を書いているが、そこで自分に問うこと、書き記すことは、きこえないことから派生する事柄が圧倒的に多い。

ホームページを開設したのも、きこえぬ自分の生き方をみつめる機会にしたいと思ったから。

しかし、自分の趣味の走ること(これも自分そのものであると思っているが)に比べて、「きこえない自分」というものを、何か形あるものとして位置付けることは難しい。

走ることは、将来にわたって無限に繰り返されるスタートの中でも、必ず、そのひとつひとつに終わり(ゴール)があるから、ひとつのデータとして管理できる。練習もレースもひとつの記録として切り取ることができるから、データベース化しやすく、ホームページという日々の更新を求められる性質のものにとてもよく適している。

きこえない僕が走ることを好むのも、「きこえない世界」という終わりのない事実に対して、必ず、終わりを確認できるという面で、両者のバランスがとれることを、無意識に身体が心地よいと感じているからなのかもしれない。

「きこえない自分」について感じること、考えることは尽きない。

様々な考えが放射線状に拡がって収拾がつかない。ホームページに求められる情報の整理ということはできないかもしれない。しばらく、まとまりのないものになることを覚悟しつつも、ここで、少しでも自分の考えが整理できればと思う。


 

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