補聴器の社会的認知

補聴器という医療装具

「きこえない」ろう者、あるいは特に「きこえにくい」難聴者のコミュニケーションを補う手段として、補聴器という医療機器がある。聴覚障害者のコミュニケーション手段として聴者が通常、思い浮かべるのは手話であろうが、実際に聴覚障害者の大部分を占める「難聴者」にとっては、まずその残存聴力を活かすべく補聴器というこの医療装具にたよることが多い。

ところで、聴覚障害の大きな特質の一つは、この障害が「目に見えない障害」ということである。それゆえ障害そのものがどういったものなのか、また、その程度、そして、障害ゆえに何に困るのか、不便であるのかといったことなどが理解されにくいのだが、この補聴器についても誤解の多いものである。

補聴器をメガネと同様のものと思っている人が多い。メガネをかければ視力が矯正されるように、補聴器も装着すればすぐに聴力が矯正される、補聴器をつければ、それですぐに普通に「きこえる」のだと思われてしまいやすい。

ところが、そうではない。補聴器は単純にいうと、「音を大きくする」だけの機械である。角膜やレンズを調節すれば近視を矯正することの比較的簡単な「目」と違い、「耳」は身体の中でも非常に繊細な、優れた器官である。最近では近視矯正手術も一般的になっているのに対し、「聾」や「難聴」は医学的にも治療のまず困難な障害だ。一口に「きこえる」といっても、音をとらえることと、「言葉」をききとることとでは全く違う次元なのであり、単に音を大きくすれば言葉もききとれる訳ではない。

難聴について

ここで、聴力が多少なりとも残っている、「きこえにくい」障害である「難聴」について少し専門的に説明してみる。

難聴はその聴力損失の部位によって、鼓膜より外側の外耳の部位に障害のある「伝音性難聴」と、内側の内耳から聴神経に障害のある「感音性難聴」とに大きく分けられる。音声が小さくきこえる「伝音性難聴」には、補聴器は大変有効なのだが、そもそもその音声情報を言葉として判断する役目の聴神経が損傷している「感音性難聴」には、補聴器はあまり効果の期待できないものなのである。

小さな文字をレンズで拡大するように、ヴォリュームを上げればきこえる「伝音性難聴」に対し、「感音性難聴」は、そもそも破れてしまっている言葉をどれほど大きくしても効果がない。例えて言うと、周波数の合わないラジオのヴォリュームを大きくしても、うるさいだけであるのと同じである。

そして、大多数の聴覚障害者がこの感音性難聴である(併せもつ「混合性難聴」を含めて)。

とはいえ、もちろん、感音性難聴に補聴器が全く効果のないものというわけでもなく、重度の感音性難聴者であっても、会話のできる人は少なくない。それは、かすれた言葉を言葉としてききとろうとする本人の必死の努力によるものであり、その意味で補聴器は、本人の強い訓練意思を必要とするリハビリ用の医療機器ともいえる。装着すれば、きれいな言葉が自然に入るものではなく、残存聴力という残された身体機能を最大限に使おうとする能動的で強い姿勢が求められる。

僕自身も感音性であり、医学的には聾の程度であるけれど、かろうじてわずかな聴力の残る右耳に補聴器をつければ、大きな音であれば何とか耳にきこえてくる。ただ、やはり、会話となると困難である。

誰もが補聴器を着けるわけではない

と、ここまでは、実は前置きである(長い前置きになってしまった)。このように、はっきりとした効果のある訳でない補聴器は、聴覚障害者にとって好んで、すすんで装着しようとするものではない一面も有している。

周囲の雑音、騒音も全て拾い集めてしまうこの機器は、装用者にとって大きなストレスのかかるものだからである。日住生活のあらゆる場面で「聞き漏らしてはいけない」と緊張している難聴者の精神的ストレスは非常に大きいし、また、ヘッドホンやイヤホン同様に、ずっと使っていると、当然、耳自体も疲れてくる。障害の程度が重く、有効な言葉としてききとれない者にとっては、煩わしさの方が大きいばかりで、全く装着しない者も多くなる。

僕自身も、「まあ、どっちでも大差ないや」という気持ちがあるから、どちらかというと付けていない時間の方が多い。本当は装着した方がいいのである。たとえ「言葉」としてききとれなくても、特に危機的状況においては、「音声」がそこに存在するということが分かることの価値だけでも大きい。後方から「危ない!!」と叫ばれて、あるいは車のクラクションを鳴らされて、全くきこえないでいるのと、「何かきこえたような・・・」と思うのとでは、生死を分けることにもなる。

補聴器の好まれない理由

もうひとつ、ここが今回の本題なのだが、聴覚障害者が補聴器を好まない理由が、補聴器が世間ではマイナスの、ネガティブなイメージを持っていることである。

補聴器はメガネのようには社会的に認知されていない。完全にファッションの一部として扱われているメガネと異なり、補聴器は忌み嫌われている。衣服と同様に、気分によって、状況によって複数のメガネを使い分けることが珍しくない時代であるけれど、補聴器にそんな選択肢はない。

箱型、耳掛け型、耳穴挿入型とあるタイプの、どれもが揃って肌色の地味な機器である。存在を主張するのではなく、耳穴挿入型がそうであるように、つとめて目立たないことを志向して作られている。補聴器の広告の売り文句も「耳の中にすっぽり入って目立ちません」「他人に気付かれません」である。もうすぐ敬老の日であるから、新聞やチラシにも多くでてこよう。そして、老人のつけるものというイメージが強いゆえ、「若いのに補聴器なんて・・・」という偏見ももたれてしまう。

目と耳と、必ず対比される器官なのに、どうしてこれほどの大きな差になるのだろう? 耳のきこえないことが劣った、恥ずかしいものという風潮が社会に根強く定着してしまっているせいだ。そして、それゆえに「耳がきこえないと馬鹿にされやすい」ことにも通じている。

障害の受容

補聴器はカッコ悪い、というイメージがあるから、装用に積極的になれない。 「目に見えない聴覚障害は理解されにくい」と最初に書いた。それゆえに、聴覚障害者自身の心理としても、目に見えないならば好都合で、ならばずっと隠しておきたい、という気持ちも起きてしまいやすい。誰しも、自らのコンプレックスや弱みを積極的にアピールしようと思わないのと同じだ。 聴覚障害が受容の難しい、障害を受け入れるまでに時間の要する障害であるゆえんである。

一方、補聴器は「目に見える」モノである。補聴器をつけることは、着けていなければ気付かれないはずの自身の障害をあからさまにすることでもある。 今、きこえる人で明日、耳が悪くなって、「きこえなくなった」「少し耳が悪くなったから、補聴器でもつけてみようかしら」とすぐに公言できる人はまず、いない。

補聴器を初めて着けるのは結構、勇気のいる行為なのだ。ろう者や難聴者は、障害の受容のひとつとして、精神的葛藤やつらい気持ちの整理を経ることによって、補聴器も受け入れてゆく。

だから僕は、補聴器を隠そうとせずに堂々と着けている人というのは、世間の見方とは正反対に、とても「カッコいい」人だと思っている。それはお世辞にも「その補聴器、おしゃれだね」なんてメガネのようにいわれることはないけれど、補聴器を耳にする姿には、障害から逃げない、社会の偏見を意に介さない意志を見ることができる。

社会の認知を目指して

人間の肉体が不変でないように、聴力もいつしか衰えてゆく。年をとれば足腰が弱くなってゆくように、聴力も衰えるし、不慮の事故や病気に遭遇して聴力を失うこともある。補聴器が避けられることなく、社会に認知されるようになることを願う。

同障の仲間であれば誰もが感じていることだと思う。

今回、記してみたのは、昨日の新聞記事に触発されたからである。日経新聞の生活欄に毎週掲載されている「モードの方程式」という、服飾史家の中野香織氏がファッションについて語るコラムである。

これによると、補聴器メーカーがベネトンと共同開発して、7色の補聴器を発売したということである。さすがは、ベネトン。いかにもベネトンらしいニュースだ。加えて、補聴器を装着するヒロインの映画も紹介されている。来月公開されるというこの映画「リード・マイ・リップス」、大いに楽しみなところだ。


 

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