通った耳鼻科のこと

耳の日

今日、3月5日は耳の日記念山口県大会が開催されている。3月3日が耳の日であることにちなむもので、全国各地でも地元の聴覚障害者団体、手話サークル等が主催しての記念事業(大会)が一斉に開かれている。僕は今週末は久しぶりにゆっくりしたく参加していないが、山口市引き受けの昨年は僕も主管実委として手伝った。

音のない世界で〜第14回山口県ろうあ者大会

音のない世界で〜「名もなく貧しく美しく」再び

中等度難聴親の会

それに関係するものでなく、また耳の日だからというのでもないだろうが、今度、山口市で中等度難聴児を持つ親の会が発足するという記事を見た。

中等度難聴の現状知って (2006年3月3日付けサンデー山口)

読んでもらえれば分かるが、難聴とは「きこえにくい」障害のこと。全く聞こえないわけではないが、普通に聞こえるわけでもない。きこえるけれどきこえない、その程度も千差万別で、大きく分けると、きこえにくさ(きこえの程度)で軽度、中度、重度と分けられる。僕自身、ものごころついたときから親に連れられて病院を回っていた。その後、成長と共に聴力が落ちていった、いわゆる軽度難聴から中度、重度と進み、失聴した身であるから、それぞれの程度の難聴の身のつらさ苦しさがよく分かる。

記事にあるように、今の日本では、重度難聴以上でないと福祉サービスや学校教育、各種福祉行政施策の対象とならない。僕も失聴するまで、今、所属している各種の関係団体があることを、また、学校にしろ、行政関係にしろ、サポート体制があることを全く知らなかった。支援というものを全く受けずに過ごしてきた。

けれども、この障害、軽度、中度なりに悩みも深く、時には重度あるいは聾以上に大きいものもある。難聴児学級に通うような重度難聴の場合、既に、親の会は存在していて、全国的にもネットワークができ上がっている。ただ、そこではどうしても障害の程度の重い方に合わせられてしまうから、どうしても軽度、中度の障害者が置き去りにされてしまう。よく、難聴を「狭間におかれた障害」というが、そのとおりで、程度に応じたきめ細やかな活動が必要という意味もあるのだろう、それで今回の親の会の発足につながったのだろう。

耳鼻科のこと

記事に出てくる耳鼻科は僕もお世話になってきた。僕は開院当初の頃に、院長の前の勤務先の総合病院に勤めていた姉の紹介で訪れたのがきっかけである。診察が丁寧で、じっくりと耳を傾けてくれる。それでどうしても診察の終わるのも遅くなる。個人病院ならともかく、総合病院では付き合わねばならない病院職員や看護婦の身もかなり大変というくらいであったが、患者はそういう医師を求めているのである。果たして、独立しての開院後、瞬く間に待合室のあふれかえる耳鼻科となった。

このホームページを読んでくれる方はランナーも多いと思うが、ちょうど来週の全日本実業団ハーフマラソンの折返し地点にある(TVにもちらりと映るかも)。

僕はここで「耳の調子がおかしい」と異変を感じての通院だったのだが、治療、そして入院(はその総合病院)の甲斐なく、聴力を失った。これはまあ、どうしようもないことである。聴力の低下はどんなすぐれた医師でもそれを止める手だてはない。ただ、普通の病院、普通の医師は単にそれを宣告するだけで終わる(僕も行く先々で宣告だけされた)が、このクリニックの(院長の)人気なのは、診察の丁寧さ、熱心さ、研究意欲またサポートが桁外れだからである。失聴後に僕もそれを実感するようになる。

言語指導

失聴後に僕はここで、読話の指導を受けることになった。週に1度、他の市の大学病院に勤務する言語指導士(Nさん)を招いての治療である。今では「言語聴覚士」として認知されてきたが、まだ、試験制度化される前のことである。それを個人の医師が大学病院から引き抜いてあたらせていた。

言語聴覚士の普通の仕事は、言葉を覚えさせる方だと思う。難聴児や、また、他の病気を原因として失語症や言語障害になった方に対してで、僕のように、読話の指導というのは珍しかったと思う。何のことはない、単語、文章を繰り返し話してくれて、音のもはや届かない僕がそのぱくぱくとした唇を読む努力の時間である。週1度、30分、およそ2年くらい通ったろうか。子どもの頃からの聾者、難聴者(は慣れている分、うまい)に比べると僕はまだ下手だが、それでもここで学んだ読話はだいぶ、手助けになってくれている。

このときの僕は治療というより、Nさんと世間話をする感じで通っていたのだが、やっただけうまくなるというものでもない。どうしても読話には限界がある。別のページでも述べたが、顔(口)を読み続けるのはものすごい集中力、気力が必要でもある。読話とは、単に唇をすらすら読む(読める)ものではなく、推測の方が大半である。ごくわずかに読み取れる口の形から、推測されうる単語を、前後の文脈から必死に探し出して当てはめようとする作業である。ちょうどGoogle(・・・ほど優秀ではないが)のような検索エンジンが単語を拾い集めるように、頭の中で自分の持っている情報をかき回している。

非常に疲れるし、やってもやっても分かるわけでない時(の方が多い)には苛立つこともあった。Nさんは、その後、市内に言語聴覚士養成学科を新設した専門学校の講師としても派遣されるようになった。僕への指導は、面白いものでもなかったろうが、あのとき、根気よくつきあってくれたことに今も深く感謝している。

僕の場合は読話だけであるが、このときの経験を通じて、聾児や重度難聴児が言葉を覚えるときの難しさ、苦労、血と涙の連続ということがよく分かった。

生きてゆくこと

余談になるが、クリニックは患者が激増するのに合わせて、院内外の構造が何度も変わった。最初は2階の院長室前休憩所で指導を受けていたのだが、ここの壁に「祝婚歌」という詩の版画が掲げられていた。吉野弘詩集「風が吹くと」からの一節なのだが、これに、これも山口市内在住の著名な版画家、保手浜孝さんが素敵なデッサンに仕立て上げておられた。「祝婚歌」の詩の内容が素晴らしく(結婚する2人に贈る言葉としてこれ以上のものはないと思えるくらい)、また、保手浜さんの画風がさらにそれを引き立たせている。僕も非常に気に入って、「もらえないですかね」と言ってみた(図々しくも!)。「あなたが結婚するときに」との院長の約束を、それからだいぶ時間はかかってしまったが、約束通りに受け取りに行ったら(図々しくも!)、保手浜さんに頼んで新しいのをいただけた。今も感謝しきれないでいる。これだけは火事があっても地震があっても、持って出たいと思っている。

僕が紹介するのもおこがましいが、院長の熱心さ、活躍、意欲は枚挙にいとまがない。場所が山口インターチェンジすぐの所にあるのも県内外の遠方の患者が訪れやすいように配慮してだというし、また僕はその後に今度は喉の疾病で、アパート近くの日赤病院に入院したこともあったのだが、ここも山口市で2つある大きな総合病院のうちの一つであるのに、鼻や喉を見る内視鏡などの機材は、クリニックの方がはるかに立派で充実していたことを知った等々。

また、当時、読話に通っていたことが縁で、「どんぐりの家」という映画上映を主催したこともあった。聾と知的障害を併せ持つ重複障害児を描いたこの映画は、特殊な形式で、賛同者が上映権を買い取って自主上映するという形をとっていた。もちろん、上映権は安いものではない、数十万円以上はしたと思う、それをポンと買ってから、有無を言わさず、僕が実行委員長に指名されてしまった。予想以上の大反響となった上映の収益は、その頃、行われていた山口県聴覚障害者情報センター建設資金集めにも大きく貢献することができた。あるのはフィルムだけ、で後は素人が全てを手配するのも大変だったが、院内の看護婦さんらや、やはり同障のSさん、今、センターの職員として働いているS君達と実行委員会を組織して頑張ったのもいい思い出である。

今は僕もここのクリニックを訪れるのは年に一度あるかどうかである(病気はないにこしたことはない)。僕の耳がきこえなくなったことは致し方ないことであるが、問題は、その後の人生をどう生きてゆくか。これが僕に課せられた今後の、ずっと続く課題であるが、院長、クリニックを通じて、大きく助けられてきた。今回の記事を読んで、あらためて、もう10年以上も前になる頃のことを思い出しながら、いつも精力的な活動で、本業の診察、治療はもちろん、聴覚障害者関連事業のサポートにも心血注いでいただけている院長のこと、また、言語指導のことを今回は書いてみた。

親の会さんの今後を応援するとともに、何よりも、苦しいことも悩みも大きかろうけれど、これからを生きてゆく難聴児に、がんばれとエールを送りたい。


 

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