4度目の県立大学講義を終えて

例年の・・・

この時期の恒例行事となってしまった感のある県立大学手話講義。いつの間にか4年目を迎えた。

昨年が今ひとつ準備不足で、気持ちの乗り切らないまま終わってしまった反省もあるから、今年は気を引き締め直す。

伝えたいことはたくさんある。昨年、一昨年がそうだったように、学生のレポートに対するお礼だけでも相当量の「追加」があるくらいだから、話そうと思えば、「手話」という講義科目の半年間の1コマ(単位)分でも足りないくらいの「聴覚障害者」論を展開できるだろう。

けれども、90分であれもこれもでは、聴く方がかえって消化不良をおこしてしまう。このあたりも慣れてきたから、10の話を並列的に説明するのではなく、2つか3つを少し掘り下げてじっくり話そうと、講義原稿は以前より簡単にして臨んだ。

気持ちの乗らない理由

4年続けて引き受けているとはいえ、昨年もこの「音のない世界で」で同じことを述べたように、この講義が近づく頃になると毎年、気が重くなる。「今年こそ、これでもうやめよう」「最後にしよう」と思う。

手話という言語について、指の動きや単語や表現方法といった、単なる表面的な技術を学ぶのではなく、学生らに真に求められるのは、手話を使う(関連する、その周囲にある)聴覚障害者の実態を学ぶこと。それには社会福祉学部の教授のどんな理論的な説明よりもテキストよりも、一人の当事者の生の声。「ほんとう」の話。福祉を志して入学し、卒業後に福祉に携わろうとする学生らには、普段、教室にいる限りでは接することのない、とても意義のある時間。 過去2年のレポートを読んでも、また通訳者にも言われるとおり、若い学生らには他に知ることのできなかった、想像できなかった世界として、僕の伝えたいことは結構、心に深く届いてくれているようだ。「学生らにとって心に衝撃を与える、貴重な時間」、そう通訳者に説得され続けて僕も応えてきた。

けれども、やはり、話している僕には痛みの伴う行為だ。

言わなければ自然に忘れてしまっていることを、逆に強く自分にいいきかせることになってしまう。人は誰しも自分の弱点を気にするよりも、長所に目を向け長所を伸ばして生きてゆくべきだ。

でも、この講義で話すことは徹底的に、自分の弱みをさらけ出してしまうこと。 かさぶたを何度でもめくって、昔の傷口をえぐり出すような時間。

「どんなことがつらいのか」なんて、口に出して言うべきではないもの。口に出すから本当につらくなってしまうし、自分もみじめになってくる。

楽をして他人事のようなもっともらしい話をすることもできるけれど、それでは相手の心に届かない。学生らの心に響くのは、自分の身を削っているから。

障害は「過去」のことだから、今では平気で話せるというものでは決してない。「きこえない」という状態は一生続くこと。慣れてくれば平気なことが増えてゆく一方で、年をとればとるほど、大人になればなるほど悩みが深くなってゆくことだってある。

講義で話したからといって救われることはない。むしろ、余計に気が滅入る。気がふさいでしまう。

ずっと迷いながら

世の中には同じように、本当は語りたくないことでも、求められて自らの痛みを語る人の多くいることに気付く。そういった人らもつらいだろうと思う。そして尊敬する。

ずっと続けてゆくほどの強さのない僕は今度こそ本当にやめようと思う。

それでも、やはり、思い出したように昨年の、一昨年の学生らのレポートを取り出して読んでみる。僕の講義に対して思ったこと、感じたことを述べてもらったレポート。一年ぶり、二年ぶりに読み直してみて、僕の話が学生らにとって真摯に受けとめられていることに、再度、再々度、気付かされる。

そういうのが束になるとまた揺れてしまう。

ちょっとだけでも気持ちを強くして臨めば、随分と空気も変わってくるもの。昨年は少し、90分の時間が間延びしてしまったようなところもあったのだけれど、今年は話している自分の方があっという間の90分であった。

例年ならば、若い学生らのまなざし同様の、5月の陽光がまぶしい時期なのだけれど、今年は接近する台風4号のせいで雨の降る中の蒸し暑い時間となった。 湿った汗が身体にまとわりつく重苦しい教室の、話している方もきいている方も決して気持ちのよいものではないネガティブな話を、それでも最後まで真剣にきいて(みつめ続けて)いただけただけでも、まずはありがたいことと感謝する。


 

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