映画「Dear フランキー」

聾(難聴)の息子と母の物語

Dear フランキー

福岡に帰った日に、ちょうど上映の始まっていた作品。評判も悪くなさそうで足を運んだが、やはり福岡のような都会の人は目が肥えているというか、こうしたマイナーなミニシアター系映画にも初日から大勢、並んでいた。

耳に障害を持つ息子と、母の物語。父(夫)のいない母子家庭という設定で、先日、記した「きれいなおかあさん」とシチュエーションが似ている。ただし、こちらは息子の耳の障害がさほど大きな比重を占めているものでない。強く全面に押し出されるものではない。耳の障害は大きな主題にはなっていない。

確かに、観終えてみると、息子の障害は特に必要な要素というのではなさそうである。耳の障害は抜きにして、健常の普通の息子と母とでも充分、映画は成り立つようにも思える。この映画では訳あって夫と別れた(夫から逃げ離れている)母と、息子の「母子家庭」という側面の方が大きい。

耳の障害が役割を果たすのは(こう書くと変だが)、ママが父親を装って息子フランキーと手紙のやりとりをするところにある。フランキーはパパとの手紙のやりとりを楽しみにしている。けれども、実は、世界の海を航海しているという架空の父親をつくりあげたのも、その父が息子に宛てて手紙を書いているのも、全てママの手によるものなのだ。ママは嘘を続けることに心をとがめられながらも、祖母には正直に打ち明けてしまえと諫められながらも、それでもやめられないのは、障害ゆえに口頭でのコミュニケーションが難しいがゆえ、ママにはそれが息子の心の声をきける格好の手段であったからだ。

けれど、嘘はやがてほころぶ時がくる。架空のはずの船「アクラ号」が、親子の住む町に本当に寄港するという。ママは嘘を貫くために、代役の父を捜す。そして、父役が現れる・・・。

心の中に支えがあれば

耳の障害がなくとも成り立つだろうが、それ自体が主題でなくても、それでも、やはり、フランキーの耳の障害があるからこそ、この映画は豊かな味わいを見せてくれるものとなっている。

フランキーは聡明な男の子である。賢い少年である。耳の障害があると、聞こえる子どもならば自然に身に付けてゆける「ことば」を覚えるのに、それだけで並大抵以上の労力が要求される。9歳の子なら尚更、その最中のはずである。それが「きれいなおかあさん」の主題であった。どうしてフランキーがあんなに自然に読み書きできるほどの手紙好きでいられるのか、はここでは追求しないにしても・・・。

少年はクールである。学校でからかわれても、泣いたり、わめいたり、叫んだり、怒ったり、落ち込んだり・・・と大きく感情を動かす子ではない。むしろ、ママの方が感情の起伏が激しい。少年の方がはるかに分別があって、思慮深いようでさえある。悲しみに触れても、胸の中に鎮めておくことができる。決して心を閉ざしている、というのではないが、心の中に自分が本当に大切にしている確たるものがあるから、周囲に惑わされずに生きてゆける。

こうした子は時にいる。周りの先生や大人なんかより、ずっと大人びている子。フランキーにとっては、父からの手紙が心の中のよすがであった。

しかし、その、少年にとって最も大切なモノが嘘だったことが分かるとき・・・。それでも、この映画から伝わってくるのは、少年はそれさえ乗り越えてゆけるだろう強さ、賢さを持っている心の持ち主だということである。それが泣かせる。

世に母子家庭は多いし、障害を持つ子も少なくない。簡単なことではないだろうけれども、母子家庭でも、障害があっても、「がんばれよ」とエールを送りたくなる映画である。

周囲を幸せにする少年

印象に残った点を2つ──。

冒頭、新しい引っ越し先でママからことづけられて階下の店に降りたフランキー。注文をメモで渡された女店員は、少年の耳と口が不自由なこと(一応、発声はできることになっているが)を悟るが、特別扱いをするでもなく、一人の客として普通に対応する。後にママの心強い応援者になってくれる彼女は、すぐに少年の賢いことを見てとり、彼女が世界で一番好きな場所を少年と共有するまでになる。母親はどうしても我が子の障害を過剰に心配してしまうが、店員の彼女は一人の男の子として、人間として相手を見ているから、ごく自然に、瞬く間に、すっと少年の心に寄り添ってゆける。

それから、本を借りようと訪れた図書館で──。

入室するや、受付にいた太っちょの女職員の呼びかけを無視してフランキーは進んでゆく。何度も呼びかけられながらも、ずんずんと突き進んでゆく。これは聾者(児)なら仕方のない、よくあることなのだが、後ろからどれだけ呼び止められ、怒鳴られても、きこえない者には気付く術がない。職員も憤慨してフランキーの肩をつかむ。やおらポケットから取り出した補聴器を耳に装着するのを見て、ようやく彼女も事情を呑み込む。

これもよくあることで、きこえないことを知った相手が次にとる態度も様々である。「何だよ、きこえないのかよ」と益々、怒る者。蔑む者。「しょうがないな」とあきらめる者。どうしてよいか分からず立ちすくむ者、当惑する者・・・。

この太っちょの女職員はお見事。頭に血が上っていた状態から一転、一言、詫びてからこう言う。

「ここにある本は、全て、あなたのためにあるの。好きなだけ見て、読んで、持って行っていいわ。もし、お望みの本が見当たらなかったら、言ってちょうだい。・・・その時は、私が、全力で探すわ」

司書はこうであってほしいと願わずにいられない。

こうした具合に、少年の周囲は優しい。周囲を優しくさせる、幸せにさせるものを少年が持っている。最初に記したように、耳の障害が絶対条件である映画というのでもない。けれども、雇われの代役父も少年を愛するようになり、友人も全面的にこの家族の味方になってくれる。ママもおばあちゃんも懐かしい日々を思い出し、歌い、踊りたくなる。どれも、少年が幸せをもたらしてくれる。映画を観ている者にも。


満足度:★★★★

2004年イギリス
2005/07/16 KBCシネマにて鑑賞

 

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