当事者団体

時々ある相談

昨日、両親がやって来て、先週の富士登山を無事終えた報告と簡単な土産を持参してくれた訳だが、いい機会だから久しぶりに外食を楽しめて、ついでに、たまに来客があると妻が部屋を掃除してきれいになるという副産物も大きくて四方にメリットがあったのだが、「ちょっと相談が」というのが目的であった。

親自身の、ではなく、人づての第三者の困り事なのだが、障害に関係することだから僕にきいてみたいということだった。

時々、身近な人のつながりでこういうことがある。耳のことなら確かに相談に乗れるのだけれど、今回は全然、別の障害で、僕自身も調べてみて初めて知ることが多かった。

何より直接の当事者を相手にするのでなく、人を介して、であるから、具体的な現状というものが伝わらず、人づての人づてできくよりも、市役所の窓口できくなり何なりが手っ取り早いだろうというのが僕の第一の思いだった。

ただ、話しにくいから、打ち明けにくいから、という理由もまたすごくよく分かる。

医者、学校、役所、そして・・・

例えば、障害とか病の問題に悩むとき、一般的(対外的)には、医者、学校(の教員)、役所の窓口・・・というのが、相談箇所になるだろうと思う。序列があるわけでないけれど、大体、こんなところかな。

このうち、どこかで本人なり家族が納得できる解に出会えるならそれでいいのだけれど、医者は治療が目的で、学校は教育が目的で、役所は法や条例に沿ったあくまで事務処理が任務である。

医者は不成功な(治療不能な)症例を語らないし、教育の理想は必ずしも現実社会に通用するものでない。事務処理に血の通った暖かさを求めるのも難しい。

「障害」に直面して狼狽する本人の心にしっかりと寄り添えるのは、これらよりも、同じ境遇の(同じ障害の)仲間である。仲間が集まったのが当事者団体。最初の相談、というのは、だから、この当事者団体に接するのが本当なら一番、いい。

当事者こそがどんな医療方法が良くて、教育では補いきれない「生きる力」や「強さ」や「希望」というものを仲間の姿に見いだすことが出来、また役所の制度にどんなものがあって、という手続きにも精通している。

ただこれも簡単ではなく、本人や家族が「障害」を認め、受容できないと同障者や当事者団体には近付けない。むしろ、最初の内は頑なにまで「障害」を拒否するというケースが珍しくないし、それは人間としてもある意味では自然な姿でもある。

どうしても「障害」は劣ったものという社会認識があるから、認めたくない気持ちになる。養護学校より普通学校の方が優れているわけでもない。同じ立場の相手にも相談できない心理的な葛藤があるだろう。

今回の相談に自分で分かった範囲では答えておいたけれど、最後のところはやはりカルテにも教科書にも条例集にも載っていないものを本人が見つけられるかどうか。医学への過剰な期待をやめ、学校の庇護から自立する勇気を持ち、福祉施策に甘えず──もちろん、これらのサポートも必要なのだけれど──、仲間から力をもらい、また、与えてあげられるようになってほしいと思った。



 

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