手と心で読む1006字(後)

言葉の本質

僕自身の経験からしても、漢和辞典というのは一番、使うのに億劫な辞書であった。ネットの普及で今ではただの辞書さえ引くこともめっきり減った。それでも、辞書というもの、とりわけ漢和辞典などはじっくり眺めてみると面白いものだ。

今、学校で漢字の部首やつくりや語源や・・・といったことを教えているのだろうか? 受験に直結しない知識など教える余裕はないだろうし、教員試験でさえOBから対策が融通してもらえる時代に、教える側の力もないかもしれない。この盲学校の子ども達は、ものすごい遠回りなことをしているようで、実は日本語の、言葉の最も本質をつかめている。漢字研究といえば、昨年、亡くなった第一人者、白川静氏が思い起こされるが、将来、彼らがそうなっても不思議でないし、そうであるなら、どんなに素敵なことだろうと思う。

「通」という字を、「思い出せそうなんだけど・・・」と何度もカードを触る子ども達。「近」、「遠」、「道」・・・「しんにょう」が行く、歩く意を有しているように、「週」は一週間の曜日がまわ(周)っていくからじゃないか・・・等、子ども達の推理も的を得てくる。

可能性を広げるイマジネーションの豊かさ

目の見えない世界では、耳を澄ませ、頭の中であらゆる想像が繰り返されているはずで、彼らのイマジネーションの強く豊かな度合いは、きっと、見える者には「想像」のつかない程、桁外れなスケールなのだろう。

想像する、推測する、推理する、察する・・・。誰もが意識的に、無意識にすること。きこえない者は、目で見える情報から、社会の音声情報を補おうとしている。そこでも想像力を始終、働かせているが、やはり、盲者のイマジネーション(の強さ、集中力)にはかなわないと思う。

盲と聾とは一緒に取り上げられたり、対比されたりすることが多いのだが、以前にも触れたとおり、こと「聡明さ」という点では、盲者のそれには舌を巻く。到底、かなわないと思う。その気になれば、こうやって頭の中で漢字を覚え、組み合わせ、造りあげてゆくのだから。

番組では、漢字を書くシーンも取り上げられていた。書く、というより、キリのようなもので刻みつけてゆく感じ。大きさやバランスは崩れているものの、「道村先生」とはっきり読める字には、見る者の胸にこみ上げてくるものがあった。

教育が目指すもの

ここでも「漢字が書けても(自分が見えないのに)どうするのか?」「何の役に立つのか?」といわれそうである。

けれども、教育とか学校というのは「これを勉強して何の役に立つ」ということばかりでなく、上に何が建つか分からないけれど(何でも建てられるように)、ともあれ、まずは堅固な土壌をつくる、礎を築くことだろうと思う。

インタビューで子ども達は「先生にはしごかれまくった」と、けれども明るく笑顔で答えていた。きっと皆がそうなのだろう。一字を教えるのに時間をかけるだけに、先生も寝食を惜しんで教材を準備し、昼夜分かたぬ徹底的なスパルタ教育で子ども達に接してきたに違いない。先生はこうであってほしいな、と思う。

見ているだけで子ども達の可能性の芽がぐんぐんと伸びていることが伝わってくる。どんな花を開かせてくれるのだろうという期待感に満ちている。盲の子らへの漢字教育が、この上ない可能性を子ども達に広げている。

人生に必要なのは勇気と想像力と──

僕は今、目で見えることを当たり前のように思い、その有難みを忘れてしまっていた。見ているようで、見えていないこともきっと多い。

さらには、きこえないから見えるものでカバーしようと躍起になる余り、目に見えるものばかりに頼っていないだろうか? 見えるモノだけが決して全てではないはず。

耳を澄ませることはできないけれど、僕も時には目を閉じて、自分の心と頭で静かに考えてみることも必要だろう。彼ら子ども達に負けないよう、イマジネーションを磨く努力を意識して行わないといけないな、と強く思った。

NHK わくわく授業(2月25日(日)再放送分・手と心で読む1006字)

※障害者週間(12月3日~9日)に合わせられたのだろう、初回放送は昨年12月3日(日)。蛇足ながら、僕にとっては、その力を借りて福岡国際マラソンで記録を樹立できた日。


 

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