手と心で読む1006字(前)

見えない子どもらに漢字学習

昨夜、週末の遅い夜の寝床で何気なくテレビを見ていたら、釘付けになってしまった。

NHK教育 わくわく授業(2月25日(日)0:40~1:24放映)

横浜市立盲学校で子ども達に漢字を教える道村先生の授業風景。残念ながら字幕放送ではなかったから、僕の理解できた内容も半分以下だろうとは思う。それでも2、3割くらいにテロップが付いてくれたのと、字幕がなくてもすこぶる面白い内容であることが伝わってきた。見ていて心が躍った。心が揺さぶられるくらいに、「すごいな」と感動した。

それゆえ、余計に「字幕があったら、なお良かったなあ」「もっと分かるのに」「もっと知れるのに」とも思えるのだが、不満はいうまい。テレビに限らず、音声情報のない僕と、そして、今、画面に映っている視覚情報のない彼ら子ども達について、共通すること、また、違いなども同時に考えさせられて、それも大いに有意義であったから。

漢字の表意性をどう伝えるのか

盲者にとって、点字は五十音に対応している一字ずつ読むことになる(=もうしゃにとって、てんじはごじゅうおんにたいおうしているいちじずつよむことになる)。書き言葉を全部ひらがな(あるいはカタカナ)で読むとなると、「見える者」には不便なことこの上ない。手話の指文字(「あ」「い」「う」・・・)に似ているなとも思った。指文字で全て説明されると、うんざりさせられるのと同じだ。指文字だけの手話があり得ない、手話の利点はイマジネーションが導く魅力ゆえであるのと同じように、漢字の表意性の素晴らしさ、有難みをあらためて思う。

そこで先生は何とか漢字を子ども達に教えようとする。僕は漢字の点字なんてあるとは思っていなかった。初めて見た。もちろん、それはただ、点(突起)をつなげて漢字の形にしただけのものである。一画一画の点や線やはねを突起で結ぶから、いきおい大きな文字になる。普通の点字が指先一本で読み取れる大きさなのに対し、漢字のそれは五指全体で何度も触れ直してようやく判別できる大きさ。それをつなげて文章にすることは非現実的である。

そんな現実的でない、表意性とは、つまり、「目で見ることが前提」の漢字を盲者が覚えてどうするのだ? けれども、漢字(の概念)のないことが当然とされてきた「見えない世界」でも、漢字を知っておいたほうが、覚えていた方がいい、という考えゆえの道村先生の挑戦であった。番組では、小学校高学年の、もうかなり学習している子ども達の姿であったけれど、先生が思い付いて始めたことも、子ども達のゼロから覚えてゆく過程も、きっとものすごい苦労の連続だったに違いない。

授業風景の子ども達は実に明るい。活き活きしている。漢字を覚えることが、授業が楽しくて仕方ない、といった感じで、だから僕も音のない画面から目をそらせなかった。

漢字学習の素晴らしさ

「馬」という漢字を教えるとき。表意性ゆえに漢字は何かを表している。象徴している。試しに今、漢和辞典を引いてみると、解字として「馬の頭・たてがみ・尾・四足の形を描いた字である」とある。先生は一字一字について、それらを丁寧に説明していくのだろう。もちろん、ここでも「馬」というのがどんな生き物(動物)なのか目で見て理解できない彼らに、どう教えるか、といった困難はどこまでも生じる。クラスメートの女の子に一人、ポニーテールの子がいて、先生は他の子らに彼女のその髪を触れさせる。「馬の尻尾に似ているから「ポニーテール」というのよ」という説明だったのだろうか?(=あくまで僕の想像)。

髪をなでながら「○○ちゃん、気持ちいいね」というクラスメートも、教室も始終、明るい。

「顔」という字では、「「立」+「ノ」に、点が三つ・・・は「さんづくり」っていうのよ」「頁は?」。生徒「おおがい」。「頭」にも「おおがい」はあるわね。という具合。根気よく部首に分けて、それぞれの意味を理解しながら学んでゆくから、最初はちんぷんかんぷんで苦痛だろうけれど、やがて有機的につながってゆく面白さに子ども達も気付いてゆく。明るく楽しそうな授業風景は、彼らが今、最初の厚い壁を越えて、学ぶことの楽しさに足を踏み入れている時点ゆえのものだったせいだろう。

(先生)「「馬」のつく熟語は?」

(児童)「馬力」「ばりきのおもちゃ」

(先生)「それは「ブリキ」のおもちゃよ」

 (一同、笑)

「馬鹿」

 (一同、笑)

「じゃあ「頭」のつく熟語は?」

「先頭」「頭領」・・・。

「ブッシュ大統領」

「頭領」と「統領」の違いにこうして、盲の小学生が気付いてゆける、覚えてゆくのはすごい。

(後編に続く)


 

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