映画「AIKI」にみる障害の違い

障害の違い

AIKI

映画館で述べたことの続き。ここでは聴覚障害をからめての視点で。

バイク事故で脊椎損傷による車椅子生活となった、障害を負って人生が一転することとなった太一(加藤晴彦)の心情に共感させられる一方で、「障害」と一言でいっても、その違いに大きな差があることをも考えさせられていた。

失ってしまった分、と残された分、ということで、どっちがいいか? というような比較には適さないものであることを承知で述べてみると。

きこえない者からみると、当たり前の話だが、肢体不自由の方はコミュニケーションには支障のないことが何より羨ましい。心が荒んだときでも、誰かと話をすることによって癒される。太一は飲み屋に行けばテキ屋の桑名正博と話せるし、初対面でも常滑(火野正平)やサマ子(ともさかりえ)と苦労なく関係が結べ、親しくなれる。

聴覚障害はコミュニケーション障害、すなわち人間関係を結びにくい障害である。50cmと離れていない至近距離にいても通じ合えない、人が多くなればなるほど自分だけが和の中に入れずに孤立する、「人と人を切り離す」障害である。

仕事面で

障害を負った太一が「この身体では仕事なんか見つからない」というけど、そうかなあ・・・。聴覚障害者の方が全く見つけにくいよ、と僕は思う。太一はハローワークに行って話ができるけど、聴覚障害者は一人では電話でアポもとれない、面接もできない。運良く採用されてもどうやって仕事を教えるか? 身振り手振りで伝えられることって本当に最低限のこと。

ずっと以前にも書いたけれど、「もし、あなたの耳が明日、きこえなくなって、そのまま今の仕事ができるか?」と問われたら100人中100人の手が下りるはず。一方で、歩けなくなった場合なら、現場系の仕事は無理でも、できることは割と多いと思う。

障害者の場合、障害者枠、という配慮のもとで採用されることが多い。ただ、この場合でも、健常者と障害者に差があるように、同じ障害者枠の中でも障害者間の差が出てくる。

例えば、聴覚障害者の場合、学力・知識を問う試験、ペーパーテストでは圧倒的に不利。そもそも言葉を覚えること自体が苦労の連続なのだから。面接となってはお手上げである。きこえなくてもできる100m走やサッカーのドリブルが就職試験に加えられることは残念ながら、ない。

大切なのは

採用までのここまででも困難の連続なのに、実はこの先が一番、難しいところで、職場に溶け込んでいけるか? そして聴覚障害者自身の気持ちが満たされるか。

僕の職場では、こと仕事面において、車椅子の方は健常者に遜色なく仕事ができていると思う。高い位置にあるファイルに手が届かないとか、移動に手間がかかる不便はあろうけれど、そうした物理的なバリアというのは割に除去しやすい。

動きやすいように少しスペースを取るとか、すれ違うときは誰だってよけてあげるし、そもそもそれらはどこまでも仕事の「本質」とは別のところにある困難である。

聴覚障害者の一番、苦手な会議に普通に加われるのは無論、エレベーターで別の場所に集まって話もできる、出張も普通にできている。同じ「障害」といっても、全く違うことを見せられていて、羨ましく感じる。

一方、僕の場合、話し合うこと、議論、討論ができない。僕なんて出張したくてたまらないのだが、移動することは問題なくできても(放送がきこえないという厄介な問題もあるのだが、それは一時、おくとして)、その先の最も大切な「本質」に関われない。

周囲は、社会は、どう思っているのだろう? 車椅子のマークが身体障害者を代表しているところからも、一番、分かりやすい障害だと思う。バリアフリーという政策も一番、形をとりやすい。

一方できこえない、きこえにくいという聴覚障害の場合、「目に見えない」ことから軽視されてしまう。周囲や社会も「一体、何が困るのか?」という想像を働かせにくい。何も言わなければ「何が問題なのか?」と考えられることさえない。

映画を見ながら、そんなことも考えさせられていた。

今回は車椅子の方との違いについて考えてみた。もちろん、車椅子の方も日々の生活面での苦労は絶えないことでしょう。逆の映画があればまた逆のことを思われるでしょうし、このエントリに不快な思いをされることがあれば申し訳ないです。

周囲とコミュニケーションできる、飲み屋に行って普通に話ができる、仕事もできるのが僕には羨ましい・・・という思いから述べてみたのだけれど、不届きがあればご容赦ください。



 

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