業務深化、配慮の格差

たこ足だらけの

昨日金曜の月例出張用務は、先週に年イチの大きな会議をしたばかりなので自分の担当分については大きな協議事項も無かったのだが、別の2課も加わった初めての会合で、そちらがメインの内容だった。

同行の上司とも往復の車中「なぜ〇〇がA課の所管で△△がB課なのか」「(もっというと)それはC課やD課ではないのか」等々、うーん・・・なこと多し。行政の仕事というのは厳密な根拠があってきれいに細分化されているものばかりでなく、時代の流れの中で法や制度や施策や云々や・・・が入り乱れてることが多くて厄介。

課名と仕事の内容が必ずしも結び付かない難しさはどこにもあって、例えば我が課は課名は非常に分かりやすいところなのだけれど、班名になると、他の3班はまだしも当班などはまるで名が体を現していない。庁内職員でさえ理解できているのは経験者と一部の人に限られようし、外部からはもっと? な感じのはず。

これも法や制度やの枠組みの変遷(混線)の難解さゆえで、一の業務でさえそうなのに、課の、また部全体のが理解できる、ましてや精通しているなんてレベルはあり得るのだろうかとふと思ったりする。

配慮されてきたのは?

3週連続仕事となった今日土曜は研修の講師役で担当業務の説明へ。ここ2週の練習会場係や駐車場係の方も向いている? かもなのだけれど、もちろんこちらが本業の大切な仕事として。

自分は障害当事者として多くの配慮をもらえてきた(きている)のだけれど、一方で、自分の障害で無い面については知らないことが多い。社会はきこえること、見えること・・・といった障害の無いことを前提につくられているとよく思うけれど、でもやはり自分の障害以外のことは、少しは分かっているつもりでいて、想像力が欠けていた、気付けていなかったこと・・・も多くて愕然ともする。

社会の配慮を圧倒的に受けているのは実は障害で無い側の方で、分かりやすい言い方でいえば、障害のない身(持たない部分)がいかに社会の恩恵を得ている、恵まれてきている立場であるかということ、それに意識の足りない自分の無知さ、情けなさというものを知らされて勉強させられる。

20160528

 

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