広がる言葉の世界にて

勇気と願望とユーモア

先週も言及した日曜の日経・文化欄。昨日は作家・黒川 創氏。

昨今、電子テクノロジーの発展により、人間の言語的世界が広がっている。例えば、ネット上のページの単語にマウスカーソルをあてると外国語でも自動で翻訳される。こうした機器のおかげでアイルランド人が文語の文献を独学で読みこなして貴重な研究を果たせた。また、脳梗塞で声を失った学者が音声発生装置を通して自身の考えを表明できることを挙げている。

ふた昔ほど前なら、こうした病状で肉声を失えば、その人の社会的生活は、実質的に終わったものとみなされていただろう。いや、それどころか、もはや、独立した意志ある人格としての十分な尊重さえ払われない、というのが実情だったのではなかろうか。

加えて「聴こえ」を失った(持たない)場合はもっとそうだ。機器の助力を得ることで自分でコントロールできる意思表明でなく、自分ではどうしようもできない、絶えず他者からの助力を得なければ(それがなければ)全く、入ってこないのが聴覚障害であり、意思表明の基礎となる情報、判断材料から圧倒的に疎外される。

もちろん新しい技術の恩恵を受けながらも、やはりまだきこえない者の悩みは深い。社会生活で自らの意思が表明でき、人格の尊重を受け、というのもまだまだだ。

それでも徐々にでも前進しているだろうか。

続いて、盲ろうの福島さんを例に挙げ、「指点字」に胸を打たれたと述べる。

もしも、ある日、お母さんが、思いついた「指点字」で息子に呼びかけてみるという、その一瞬の勇気と、いくらかのユーモアを発揮していなければ、福島さんは、海底のような孤独のなかに置き去りにされたままだったのである。

技術を導くものは、いつでも、それに先だつ、たった一人の誰かの、強い願望なのだ。

「勇気と、願望と、ユーモア」か、いいね。最後はこう締めている。

「応益負担」との建前で、障害者が必要とする福祉サービスについて、より多くの金銭的な負担を彼らに求めることには反対したい。彼らの社会参加によって、<世界>の豊穣さにしばしば気付かされる、そういう「益」を受けているのは、この私たちの側なのである。その事実を、言葉の恣意的な使い方で、歪めてはいけないと思っている。

僕も以前、書いたけれど、ボランティアは「してあげる」という意識でなく、「できる」側がその立場にまず感謝したいと思う。


 

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