少なくとも最後まで

村上春樹(2007年刊 文藝春秋)

2008/09/14 第9章読了、2008/09/21メモ


第9章「少なくとも最後まで歩かなかった」

2007年刊
文藝春秋

再び1ヶ月中断して、9月、ようやく読了。やれやれ、丸1年かかってしまった。

ホームページに掲載するようになるずっと以前、具体的にいうと社会人になってから、のここ19年、読んだ本は必ず、それなりにパソコンに読後メモを打ち込むことを課してきた。

単に自分の中のルールというだけで、それが好ましいとか成果があるとかいうのではなく、いったん定着してしまうと、メモを書き終えないと読了したという気持ちにもなれない。たとえつまらなくて途中で読み止めたものでも、つまらないのでやめたとか、メモすべき箇所無し、とか。そうやってようやく本棚に収納されてゆくのが儀式になっていった。

もちろん、読むのはあっという間でも、メモする方がうんと手間取るから、机の脇には常時、読みかけの本、読んだけどメモがまだな本・・・さらには買ったけれど読み始めてもいない本・・・が積み重なっている。数ヶ月、また何年も・・・。非効率なことをしているけれど、でも、ケリをつけて本棚に持ってゆける時はすっきりする。ようやく落ち着いた気持ちになれる。

この達成感は、ちょっとだけマラソンにも似ているかな。このメモも僕の好きな著者の、そして、著者に多分に影響を受けて走ることにのめり込むようになっただけに、各章ごとの長きにわたってしまった。

苦しさを通過していく中で

我々はこの社会にあって、どちらかといえば特殊な人種なのだ。(中略)
世間の一般的な常識から見れば、とてもまともな生活とは言えないはずだ。変人・奇人と言われても文句が言えない部分はある。だから「連帯感」というほど偉そうなものではないにしても、温かい共通項のようなものが我々のあいだには漠然と、晩春の峰にかかった淡い色合いのもやのごとく、存在する。

おぉ! 僕の以前、書いたことと同じ。

連帯感、というほどはっきりしたものではないが、不思議な共有感である。


連帯感・・・のようなもの/第36回防府読売マラソン 4/完走記

特にこのとき(3年前の)レースは僕のその後の記録更新にとっても大きな転機となるための一歩、手前の、今、思えば、本当に重要なレースであったのだけれど、マラソンを走るランナーなら、皆、誰も感じているはずだ。もちろん著者の方が詩的な、そしておなじみの素晴らしい比喩で書いてくれているのだが。

最終章は4年ぶりにトライアスロンに挑戦した著者が、ニューヨーク、ボストンでの納得できなかった走りから、いくらか改善されて、何より個人的に楽しめて手応えを感じられた経緯に至っている。ちゃんと最終章で落ち着くべき境地に着陸している。

僕もずっとこの著者の考え方、走ることに向き合う姿勢、そこから得られる有形無形の価値観、というのに大きく共感し、影響を受けてきた。今まで雑誌やエッセイや・・・に繰り返されてきた著者の思いが、こうして一冊の本としてまとめあげられたことが、本書のひとつの価値である。あらためて著者があとがきで述べているように、「メモワール」である。

僕もこのホームページ(ブログ)を通して、主に完走記なりランニング・エトセトラ、また別のカテゴリにも走ることに対する自分の思いというものを折に触れて書き残してきている。それらも、もう随分の量になっているはずだ。いつか僕も整理して、メモワールとして個人出版くらいしてみようか。

苦しいからこそ、その苦しさを通過していくことをあえて求めるからこそ、自分が生きているというたしかな実感を、少なくともその一端を、僕らはその過程に見いだすことができるのだ。生きていることのクオリティーは、成績や順位といった固定的なものにではなく、行為そのものの中に流動的に内包されているのだという認識に(うまくいけばということだが)たどり着くこともできる。


たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。

第9章:★★★★★


 

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