マイノリティのランナー

村上春樹(2007年刊 文藝春秋)

2008/06/15 第7章読了、2008/09/20メモ


第7章「ニューヨークの秋」

2007年刊
文藝春秋

本章は他の章に比べて分量も少なく、内容もさらりと軽め。時にそういう章が必要なのだ。練習でもレースでも、軽く抜くステップが。

マイノリティのランナー

ニューヨーク・シティーマラソンの調整を目的として筆者が走ったボストンのハーフマラソン。ボストンマラソン同様、BAA主催で4500人参加というから結構、大きな大会だ。そこで筆者がふと漏らした次の記述に僕は惹かれた。本書の主旨とは何ら関係のない、普通、誰も気にとめない、気にも残らないだろう些末な一文。

まわりを走っているランナーはほとんどみんな白人。とくに女性が多い。なぜかマイノリティーのランナーはあまり見かけない。

僕の勝手な推測だが、マラソンはやはりある程度、経済的に余裕のある層以上が行うスポーツだ。富裕というほどでなくても、一定の所得があり、時間的にも精神的にもある程度の余裕がないと取り組めない。日々を生きてゆくだけに必死にならざるを得ない人間が走ることにエネルギーを注げるはずはないから。特に今のような厳しい経済情勢、雇用情勢において。

歴代大統領がジョギングを日課とするように、仕事でもエリートほど健康維持に気を遣う。

よくアフリカ系黒人ランナーのハングリーさを説明する時、彼らは生活がかかっているから、というように、裏を返せば賞金や報酬というニンジンがなければ、ハングリー(空腹)を満たす金にならないことに労力を費やす余裕はない。1時間でも多く時給を得たいはずだ。そうした具合に、経済的に下層に位置することの多いマイノリティーがレースに参加するケースが少ないのも必然的なことだろう。

デフリンピックでも

これは僕がデフリンピックに参加した際にも強く感じたことで、きっとオリンピック以上に障害者がスポーツできることはまだまだ困難な点を有している。世界的にも日本でも。日本でさえそうなのだから、ある程度、福祉の整った国からでないと選手は出場してこれない。

もしかするとパラリンピックに比べても、デフリンピックは遅れているかもしれない。こと、スポーツすること自体にハンデはなくても、聴覚障害者の場合、他の障害に比べて仕事を持つこと、一定以上の所得を得ることが難しい。


また同時に男女比の差というのも非常に大きかった。途上国、福祉後進国ほどやはり女性の地位が低いから、女性選手は圧倒的に少ない。日本のように女性の方が男より元気、というのは少ないのではないか。世界的にはまだまだ女性がスポーツなんて・・・という考えがあるかもしれない。例えば韓国は道徳的なせいなのかどうか、女性は全く見なかった(旅行に行くとよく見かけるけれど)。

そういう意味からしても女性が多いというのが自由と民主主義を最も標榜するアメリカであり、ニューヨークであるのだろう。6年前に走ったバンクーバー・マラソン──超福祉先進都市──も男性以上に圧倒的に女性の選手が多かった。レース当日も、普段のジョギングコースとなるイングリッシュ・ベイでも。

いつかニューヨークも

僕は村上春樹に誘(いざな)われてボストン・マラソンを走った*。本書のくだりを読むと、さらに著者の愛するもう一つのニューヨーク・シティーマラソンもいつか走ってみたくなる。

* ホノルルでもNYでもロンドンでもなく、ボストン/ボストン旅行記

11月のニューヨークは実に魅力的な街だ。空気は意を決したかのようにきりっと澄みわたり、セントラル・パークの樹木は黄金色に染まり始めている。空はあくまで高く、高層ビルのガラスが太陽の光を豪勢に反射させている。

レースの当日、僕はニューヨークの秋を、その「蠱惑の光景」を、自分の脚で駆け抜けながら心ゆくまで味わうことができるのだろうか? それともそんな余裕なんてどこにも見あたらない、ということになるのだろうか? もちろん走ってみなくてはわからない。それがマラソン・レースなのだ。

第7章:★★★


 

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