もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった

村上春樹(2007年刊 文藝春秋)

2008/01/20 第6章読了、2008/09/20メモ


第6章「もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった」

2007年刊
文藝春秋

第5章をおおざっぱにメモしてアップせぬまま放置しておいてから8ヶ月が過ぎた。いつもの僕の癖で、最後まで完結せぬままの状態の宙ぶらりん。でも机の脇に詰んだまま、意識は消えずにずっと残っている。まだ暑い残暑だけれど、秋が近付いてそろそろレースに向けて走ろうという気持ちも高まり、うんと久し振りに本書を手にしてみた。そして残りを読み切った。数日で読み切ることは訳ないのだが、1章ずつゆっくり読もうと思っていたのだ──。

これも僕のもう一方の癖で、時間はかかっても決してフェードアウトはさせない。ちゃんと落とし前はつける。棄権なら棄権で明言する。少なくともこっそりやめたりしない。かくして、本書のメモを完結させるべく立ち上がった・・・。ついでにいうと、本書のみならず、途中切れになっているシリーズは実はとても多い。

ランナーズ・ブルー

本章では、サロマ湖100キロウルトラマラソンを走った著者が、レース後に精神的虚脱感を覚え、走るという行為への熱意の欠如していったことを語っている。

僕自身もそうで、走ることへの「どうしても」というほどの熱意を持ちきれない自分がある。ちょっとという程度でないくらいに大きい。休日は全て練習かレースに当て、家の中はランニング・グッズであふれ、読む本は全てトレーニング論関係、付き合いのコアはもちろんランナー仲間、ちょっと足が痛くて走れなかったら大騒ぎし、酒を飲めば誰それがどこそこのレースでどういう結果だった・・・という無尽蔵な話で終わりがないくらいに、あらゆることより走ることを優先して愛する、好きだといいきる多くの同士。

羨ましく思うと同時に冷めた目で見ている僕は、記録は狙ってゆくけど、例えば月間走行距離(なんていうオタク用語も好きじゃない)で比べれば練習量はうんと少ない。レースに出かけるのも、フルマラソン以外は県内でさえ遠い所はイヤだなんていう億劫がちな、最小限の労力で最大の成果を得たい、という図々しい考えの持ち主なせいかもしれない。

ずっと走り続けたい、という思いがある一方で、どこかでこの世界から足を洗う自分も捨てきれない。願わくば引退の花道となる何か大きなトピックがあれば・・・、いい言い訳が見つかれば・・・。

走るという行為に対して

走ることよりもっと大事なことはたくさんあるじゃないか、という思い。究極の自己満足と呼ばれるオタクな趣味。人より速いこと、記録の優れていることがすなわち尊敬されることでは決してない競技。

それでも走ることに見いだす意義は? 価値は?

球技のようにもっと楽しく、コミュニケーションがとれて、修行的苦しさを味わわずに済み、またそもそも衰えてゆく肉体に頼らない、文化的な世界などへの転身が好ましいのではないか、そんな迷いを持ちつつ、時に距離を置いて、また時に走りたい自然の欲求が芽生えて、を繰り返すのかな。確かに練習でもレースでも独り、走りながらだと「考える」ことにはうってつけの種目ではある。

書くという作業を通して思考を形成していく。書き直すことによって、思索を深めていく。しかしどれだけ文章を連ねても結論が出ない、どれだけ書き直しても目的地に到達できない、ということはもちろんある。たとえば──今がそうだ。そういうときにはただ仮説をいくつか提出するしかない。あるいは疑問そのものを次々にパラフレーズしていくしかない。あるいはその疑問の持つ構造を、何かほかのものに構造的に類比してしまうか。

正直なところ、僕にはよくわからないのだ。どのような理由と経緯をもって「ランナーズ・ブルー」が僕の身にもたらされることになったのか。そしてどのような理由と経緯をもって今それが薄れ、消えていこうとしているのか。その説明はまだうまくできそうにない。あるいは結局のところ、こう言い切ってしまうしかないのかもしれない。それがたぶん人生なんだ、と。

第6章:★★★


 

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