僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた

村上春樹(2007年刊 文藝春秋)

2008/01/13 第3章読了、2008/01/14メモ


1年前に読み終えてメモしていながらブログに収録できないままでいたもの。2年越しになってしまうが、年もあらたまったことだし、昨秋以降、走るに走れずにいた、今年こそきちんと走りたいという意味でも気分を高めるべくエントリ。

第4章「僕は小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた」

2007年刊
文藝春秋

この章も、著者の多くのエッセイや「きいてみよう」シリーズで繰り返されていること。小説を書くためには才能だけでなく、時にはそれ以上に集中力と持続力が必要になってくる。これは意識して後天的に身に付けてゆけるもので、著者にとっては走ることが小説を書くための肉体を作り上げ、支えてくれているのだ、と説く。

長生きするためではなく

多くのランナーにとっても同じだ。学生の時ならいざ知らず、社会人になって仕事を持ちながら走り続けるのは、あまり効率的なこととはいえない。特にマラソンのように、苦しく長い練習が求められ、かつ、見事にその準備が裏切られることも少なくない競技など。

僕も思う。毎日、走ることに費やす1時間、週末の2時間をもっと有意義なことに費やすことはできるはずだ。もっと仕事に打ち込む、あるいは語学を勉強するとか、資格取得を目指すとか、今後のインフレと老後資金に備えて投資に励むとか・・・。毎日30分でも、その積み重ねは生涯で膨大なものになる。

「走ることって何のためになっているのか?」「何か実益をもたらすか?」と問われると答えに窮する。それでも、著者の小説を作り上げているように、僕にとっても走ることで仕事にプラスに作用している点は大きい。集中力や持続力が鍛えられる。

「才能」に欠ける部分を「努力」で常に補い続けている、その積み重ねは仕事にも必ず活きてくる。

世間にはときどき、日々走っている人に向かって「そこまでして長生きをしたいかね」と嘲笑的に言う人がいる。でも思うのだけれど、長生きをしたいと思って走っている人は、実際にはそれほどいないのではないか。むしろ「たとえ長く生きなくてもいいから、少なくとも生きているうちは十全な生活を送りたい」と思って走っている人の方が、数としてはずっと多いのではないかという気がする。

「長生き」だけでなく、「記録」や「順位」に置き換えても同じ。「そこまでして記録を伸ばしたいかね」「順位に固執するかね」という嘲笑的な視線が同じようにある。「記録や順位」だけでなく(それにもこだわりながら)、もっと大きなものをランナーは獲得する。これは走ってみないと分からない。

第4章:★★★

同じ十年でも、ぼんやりと生きる十年よりかは、しっかりと目的を持って、生き生きと活きる十年の方が当然のことながら遥かに好ましいし、走ることは確実にそれを助けてくれると僕は考えている。与えられた個々人の限界の中で、少しでも有効に自分を燃焼させていくこと、それがランニングというものの本質だし、それはまた生きることの(そして僕にとってはまた書くことの)メタファーでもあるのだ。


 

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