走ることと人生の無常について

読み、書き、ランニング

誰もが感じることではなかろうけれど、最近、思うことについて。

シーズンにもなると毎週各地で賑やかにレースが開催されていて、好きな人は9、10月にもなると向こう年末、年度末まで毎週末はレースの予定でびっしり埋まっている、という人が多い。県内、近県でも先週は土日連チャン、もうこの時期のフルマラソン等々...。

僕もそれが楽しくて以前は最低、月イチくらいレースに出ていたのだけれど、特にマラソンに打ち込むようになるとレースに出過ぎる弊害も分かるようになり、ここ6、7年はあまり出なくなった。

それで、週末はゆっくりじっくりと練習してるつもりなのだが、これがやはりレースのあの高揚感やときめきやアドレナリンの分泌やもらえる表彰や賞品や・・・に比べると、特にこの時期のマラソントレーニングはさっと走って終わり、という性質のものでなくすこぶる単調な耐性をつくるのが目的なだけに悲しいくらいに地味な行為でしかない(ついでにブログで報告するネタもない)。

レースに出て楽しく健康的に汗をかく方がずっと楽しい、よしんばレースでなくても旅行に出かけるとか祭りやイベントに参加するとかもっと人生楽しい選択肢はたくさんあろうのに、何よりここ3年のこの時期から年度末までは毎週末も仕事に出ているなど、とにかくもう「一体自分は何をしているのだろう?」と人生の無常を思いたくなるような、非常に虚しくなってしまうわけだ(ちなみにレースは非日常の祭りで旅行も温泉もその後のビールも兼ねられるお得なイベントだ)。

特に今年は年度前半がやたら忙しくあちこちに出向いていただけに、年度後半入りした今月からの落差を余計に思い知らされている側面も大きいのだが、まあしかし、身を落ち着けて礎を強くすることも大事だと、これは、ここ数年、めっきり本を読まなくなった自分を非常にまずいと思っていることと同じように、読書や日々のランニングというのは非常に地味な、一見、単調な行為であるけれど、自分の意思で時間をつくって向き合わないとできない、テレビや車や、のように黙っていて向こうが何かをくれたり運んでくれるものでなく、前に進むという明確な意志を持っていないとできないことで、それを意識的に続けてゆけるかどうかで人間は変わってゆくものだということくらいは充分、思い知らされているだけに、地味な時間も行為もやはり大事なことだと、そんなふうにいいきかせているこの頃である。

あと時々はこういう、頭の中に渦巻いている思いを文章に落とし込んで整理するという意味でもブログはちょうどいい手段なので、これも億劫がらずにやらないとね。

常々、走ることは人を哲学者にさせると思っているのだが、哲学者ベーコンも読むこと書くことが人をつくると述べている。名将、野村克也氏も野球というフィールドにあって引用していた。

「読み、書き、算盤(そろばん)」ならぬ「読み、書き、ランニング」は僕自身、ここ20年、ずっと思っていることでもある。


八幡宮秋祭
八幡宮秋祭

 

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