第34回防府読売マラソン(後)

2003/12/14 防府市陸上競技場発着

意外な体験

防府読売マラソン~ラストを駆ける
ラスト、競技場に戻る

前編で述べた、今回、欠場予定のところ一転、出場を決意したのは、大会主催である読売新聞社の記者に取材されたことがきっかけだった。

大会10日前の12月4日(木)、昼食中に一本の電話が入る。「今度のマラソンのことで取材したい」と。「ウソだろ」と思ったら、本当に午後すぐに記者があらわれる。「県内選手の中で持ちタイムがいいから」とのことだけど、申請タイムではなく「実力」なら僕よりはるかにすぐれた県内ランナーはそれこそ無数にいる。「何でおまえなんかがトップクラスなんだ」と言われそうである。もちろん、取材されるなんて名誉な喜ぶべきことなのかもしれないけれど、欠場を決めていたところには何とも間の悪い、バツの悪いタイミング。「困ったな・・・」と血の気が引きつつ、僕がきこえないことを知らずにやって来られた記者と筆談で話をする。こういうとき、感情を表しにくい筆談だと余計に緊張してしまう。

せっかくやって来られた記者にはっきり「欠場を決めています」とは言えず(勇気がなく)、貧血で体調がすぐれないことを説明しつつ、「ぎりぎりまで様子をみて決めるつもりでいます」と最初はごまかした。嘘を言っている自分に胃がきりりと痛みもした。 それが、マラソンのこと、防府のこと、走ること・・・と筆談をいとわずに、次々にたずねてくれる記者に、次第に僕の緊張も解けてゆく。「カウンセリングというのはこういうことなんだなあ」と思うくらいに、たずねられるまま、自分にとってのマラソン、防府読売・・・のことを話しているうち、突然、「出よう」という気持ちが湧き起こったのだ。

「県トップクラスの記録所持者」で紹介されたままでは、二度と訂正のきかない大誤謬で終わってしまっていた。僕も今後ずっと罪を背負って走らねばならなかったところだった。救いだったのは、話の広がる中、2月の別大マラソンで出した僕の自己ベストが、日本ろう者マラソン記録に同タイムであったこと、そして、ぴったり並ぶことになった記録というのがちょうど20年前のこの防府読売マラソンで出た記録であること。さらに、まさにその記録者であるNさん本人が、今回、10km壮年の部で出場されるという話題があったことだ。

それで、大会前の選手紹介の記事だけで終わらずに、取材が続いた。静岡からやって来られたNさんをも交えて、開会式、レース当日と。取材なんて僕には慣れない経験で、レース以上に緊張していたのだけれど、今度は手話通訳者が同行し、また、明るいNさんのおかげもあって、記者の方とも次第に打ち解け、楽しく話をすることができるまでになった(そして、取材される、というのはやはり、ちょっと心も浮ついた)。この先、こうした機会は二度とないだろうから、何かの手違いにせよ、転がり込んできた機会としてありがたく、受け取らせていただいた。

年男として

僕が出場を決めた12月4日の前日は、事故で入院していた母が退院した日とも重なる。7週間前、僕の貧血が判明した直後に母が事故に遭ったという、親子で悪いことが重なっていたのだ。母が晴れて退院できたように、僕も同じように停滞期を脱せねば、という気持ちにもなった。僕にはアテネ五輪がかかっているわけでもないのだから、気持ちを楽にして、悪い時は悪いなりに出てみようと思えるようになった。

今年は年男として、年頭にかける意気込みも特別なものがあった。ランニング・エトセトラに掲載するくらいに、はりきる意欲があった。実際、1月の中国山口駅伝での好走、そして2月の別大での自己ベスト更新付きの復活、と幸先よく入り込めた。

それが、初夏、肋骨を怪我したあたりから下降曲線に陥ってしまった。あれほど気をつけていた貧血が昨年と同じ時期に判明したときには、情けなさに泣けた。今年の後半は何だかぱっとしない、仕事でもプライベートでもキレのない、鈍った感じをずっと背負っているようだった。このまま、ずるずると一年を終えてしまいそうだった。

そろそろ年賀状のことを考えるようになった12月に入っていただけに、僕も年頭だけは威勢の良かった所感のことが苦々しく思い出されていた。その意味でも、防府への出場を決意する心境に変われたことは嬉しかった。「そうだ、年男として、やはり最初と最後に決めなければ──」。記録や内容はともかく、年男として、未年の2003年、最後にもうひとつ、きちんと足跡を残したかった。すっきりした気持ちで新年を迎えたかった。

出場を決めてから、いったんは不安が大きくなったものの、日増しにやる気が増してくる。練習に向かう時、いざ走り出すときのこの季節の冷気がとても心地よい。まさに冷たい風を切って走る、という感覚。レースが近付いた時のいつもの緊張感、昂揚感がよみがえる。やはり、この緊張感、心の昂ぶりはずっと味わいたいと思う。

追いかけたい存在

今回、県庁陸上部からのエントリーは山田君と僕との2名(地元なのに、ちょっと寂しい)。一つ前の集団にいる彼の、同じ蛍光イエローのユニフォームは、前半からずっと目を離さずにいた。彼がこのままペースアップしなければ、そして僕の調子が行けそうなら、願わくばいつか、あの集団に追いつきたいと思っていた。

前半、まずまずの調子を確認して折り返した僕は、25kmでじわりと抜け出し、30km直前で彼に追いついた。既に集団がバラけている中、抜け出さない彼も調子が悪そうに思えたので、そのまま追い抜く。けれども、すぐに32kmで再び抜き返される。そしてまた差が開く。僕も落ちてくる選手を拾っていったが、彼の走りはそれ以上に力強く、前半と同じく、あっという間にまた200m以上の大きな差をつけられる。残り10kmのこの苦しい走りの続いた中、僕が見ていたのは彼の背中だけである。他の選手は一切、見えていなかった。

彼のことはこれまでにも触れたことがある。同じ陸上部の同い年の仲間として、「負けたくない」というより、ただひたすら「追いつきたい」と思う存在である。

彼と僕とは他の選手を上回るペースで駆けていた。間に十数人の選手を常に挟んで、落ちてくる選手を追い抜きつつ、2人は刻一刻、ゴールに近付いていた。他の選手は追い抜けてゆけていたが、彼との差はなかなか詰められない。けれども、どうせなら僕は、彼に次いでゴールしたいと思った。防府市陸上競技場で地元の意地を見せたかった。500人超のエントリー選手の中で、同じユニフォームの2人が競技場に続けて入る姿を、フィニッシュする姿を見てもらおうと思った。言い過ぎだろうけれど、かつて宗兄弟の順位がレースでも常に拮抗していたように、僕も彼に少しでも近い位置にいたいと思った。

残り3km、風と太陽を背に受けたラストの直線は青空が選手を吸い込んでゆく透明な光の中、僕には元々の、それがマラソンには弱点のロングストライドを後は気にすることなく、目一杯広げて追いかけた。競技場に入る直前、2人の間に最後に残っていた一人を追い抜き、彼と僕とが順に続けてトラックに入る。まさか追い抜けるとは考えていなかったけれど、あとは勢いにまかせてバックストレートで追いつき、最終コーナーで僕がかわしてゴールした。

防府読売マラソン、ラスト400m
あと400m

山田君には「最後で抜かしてゴメン!」なのだけれど、ただただ黄色いユニフォームの背中に追いつきたかった。無心だった。彼でなければあんなに必死にならなかった。自己ベストの更新が無理であることは走る前から分かっていたし、後半は、当初目標の完走だけを考えるなら、あとは無理をせずに流しておくこともできた。それが彼の走りに引っ張られた。スタートしてからずっと、気持ちの中で追い続けていた上に、最後、最も苦しいラストの10kmを引っ張ってもらえた。やはり、マラソンは一人で走る競技のようで、何か別のものが自分を突き動かしてくる。

今回、このラスト2.195kmは、後半に異常なスパートをかけた今年2月の別大のタイムをさらに上回る7分17秒。優勝の佐藤選手を含めた上位40選手のラップタイムと比べても、僕のこの2.195kmのタイム(だけ)は最高タイ。「最後にそんな力が残っているなら、もっとうまく配分しろ」といわれそうだけれど・・・。それくらい最後はがむしゃらに追い駆けた。

自己ベストがかかっているわけでもないのだから、本当なら無理しない方がいいことも分かっている。40km走った身体で最後、猛然と飛ばすのはダメージが大きく残るだけで、次の走りにつなげるという意味ではマイナスでしかない。でもやはり、僕にとってマラソンの喜びは、ラストの2.195kmで身体の芯から熱いものがこみあげてくるこの瞬間にある。

記事として取り上げていただいた日本ろう者記録の更新は今回、かなわなかった。こちらは20年かけてやっと追いついたタイム。いつか必ず更新したいと思う。こうして、追いかける目標があるというのは、とても幸せなことだ。目標を持てていることに感謝している。


【第34回防府読売マラソン特集&トピックス】(12月15日付け読売新聞)

*記事に付されたゴール後の写真に、Nさんに加え、山田君をも一緒に収めてくれたカメラマンに感謝します。一生の宝物。

出て良かった、大きな充実感

県実業団駅伝から2ヶ月ぶりのレースは、スタート直後から足の回転が鈍く「こんなことで本当に42km走れるのかな」と不安を抱えての走り出しであった。後半はやはり練習不足のはっきり出た非常に苦しい走りとなった。途中、足の指のマメがつぶれたのも初めてのこと。一流選手がよくいう「マメがつぶれて失速・・・」とはこのことか、というのも実感した。あと、普通なら出場前にはしっかり治しておきたい足裏のウオノメが、10日間では今回、治療できず、こちらも後半、ずっと激痛に苦しめられた。

けれども、何とかつぶれることなく走りきれた。今回、今の体調としては充分なタイム、上出来過ぎるタイムで完走できたことにホッとした。満足に練習のできなかった、10日前に出場を決意してから数日の本練習のみで臨んだ状態としては予想以上の好記録であった。この条件でこれだけ走れる、という、それはそれで変な自信を得ることができた。

一方で、意外に走りきれそうだと感じた35kmを過ぎたあたりからは、「今回、この状態でこれだけ走れるのなら、やはり昨年同様、コンディションを整えて、練習をちゃんと積んで別大にスライドする策の方が好結果につながりそうでよかったんじゃないか」という考えもよぎった。過去2度の経験で、防府と別大を続けて走ると、どうしてもタイムの悪くなることが分かるようになっていた。1ヶ月半の間隔では疲労回復も難しい。僕にとっては、中国山口駅伝という、マラソン以上に緊張するレースを別大1週間前に控えている。そのためのトレーニングもはさむことになる。加えて今回、30km以降の苦しさは、治りかけている貧血を間違いなくぶり返すような、ダメージの大きく残るものであることが走りながら自分で分かっていた。

それでも、今回、出場できたこと、完走できたことは良かった。ベストコンディションで臨めるレースだけを厳選して自己ベストを追い求めたいのは本音であるけれど、一方で、そればかりが全てでない、自分の記録ばかりを追うことが全てではないとも思う。取材というきっかけを通して自分の気持ちが変わったこと、全く予想しなかった世界に触れることができたことが嬉しい。自分の気付かなかった世界を引き出してくれた。担当の替わった2人の記者の方とも、ともに気持ちよく話ができるまでにもなった。

3年前の防府と別大で少しお会いしただけのNさんとも、じっくり話をすることができ、懇意になることができた。遠く静岡からやって来られたNさんは、10kmの部を終えて本来ならすぐに帰る予定のところ、僕のゴールを待っていただけた。僕の走りをねぎらい、過分なまでに称えていただけた。ろう者記録のことも今回の走りも本当に喜んでいただけた。今後のことを激励していただけた。僕が欠場してNさんの走りを沿道で観戦しただけでは、ここまで打ち解けられなかった、関係も築けなかったと思う。滅多にあることでない縁はやはり、大切にしたい。

そして、この大会に出場する選手は皆、同じ気持ちであろう、「防府は一年の終わりを締めくくるレース」。「防府を終えてこそのクリスマス、正月」。この安堵感、充足感が何より大きい。終盤の力走とラストの無茶苦茶な走りとで、身体はバラバラになってしまった感じ。しばらく次のレースは考えたくない(実は今週すぐにあるのだが・・・)。今はゆっくりと、残りわずかな平成15年、年男だった未年の一年を振り返りながら、余韻を味わっていたい。


  • 完走者344名
  • スタート時の天候:晴れ  南の風2.5m  気温13度

大会結果ページ(読売新聞社)



 

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