第36回全国ろうあ者体育大会

2002/09/15、16 宮城県仙台市宮城野原陸上競技場

仙台の地、司馬遼太郎

晴天の中、久しぶりの上り新幹線に乗る。今回の旅行では、仙台についていくばくかの知識は詰めたいと思い、用意してきた司馬遼太郎の『街道をゆく』を車中で一気に読んだ。一片のガイドをはるかにしのぐ細やかな既述がなされているのは無論、何より司馬独特の歴史観が大変興味深くて面白い。戦後日本の財産と呼んで然るべき氏の作品については、恥ずかしながら『竜馬が行く』、『項羽と劉邦』、『燃えよ剣』、そして朝日新聞社の『司馬遼太郎の世界』程度しか読んでいなかったのだが、あらためて、この人のすごさを強く認識する。年をとってからゆっくり・・・ではなく、機会を捉えて読まねばという思いにさせられた。

車中ですっかり気分を良くした僕は、学習意欲を刺激され、仙台についてさらに知りたくなり、到着後に『仙台の散策~歴史と文学をたずねて~』を購入した。これも偶然入った『宝文堂』書店が仙台随一の大手本屋で、郷土出版物も多く発行しているところであった。

以下、主に印象的だったところをざっと紹介しみると、以下のとおり。

旧仙台藩は、仙台平野という肥沃な穀倉地帯を持っていた。徹底的に米一筋の経済に立脚することができたがために、他のめぼしい産業が生まれず、また文化の還流を少なくさせたという結果をもたらした。「沃土の上に安住して殖産興業をおこたった」と氏は述べている。

伊達政宗廟所 瑞宝殿
伊達政宗廟所 瑞宝殿

豊臣秀吉の好みによって興った桃山文化は、当然、あとをついだ家康には好まれず、わずか十数年でほろんだが、伊達政宗が好んで仙台に移植したため、全国でもこの周辺にのみ多く残っている。塩釜神社、松島の瑞巌寺、政宗の廟所の瑞鳳殿(但し、今の瑞鳳殿は焼失後の再建)など。

古歌でしきりに詠まれた宮城野(今の仙台の地)は、王朝の頃、都人のあこがれであった。『おくのほそ道』で旅した芭蕉も「宮城野の萩」を訪れたかった。毎日のように新聞の社会面の3行分の広告を出している、あの「仙台に銘菓あり──」の「萩の月」である。

氏は正岡子規とならんで魯迅が好きだという。その魯迅を、こう評する。

「清末、他にも留学先があるのに、とくに日本をえらび、それが明治期の日本だったことも、よかった。かつ江戸期の篤実な人間の心がなお生きていた仙台であったことに、天の配剤だったような感じが私にはする」「魯迅は、他者の人格にひそんでいる光を感ずることのできる稀有の感光板をもっていた」と評する。

魯迅下宿跡地は広瀬川沿いの、東北大学片平キャンパス向かいに残っている。

伊達政宗はもともと、山形県米沢の人である。一時、山形、宮城、福島県に勢力が及んだのだが、天下人となった秀吉によって会津、そして累代の米沢の地までとりあげられ、今の宮城県が与えられたものである。

入りそめて国ゆたかなるみぎりとや

千代とかぎらじせんだいのまつ

政宗は以前、千代と表記されていた地を、唐詩選の七言律から取って千代を仙臺(仙台)と改めた。上に詠んだ和歌は、自分が仙台に腰をおちつけた以上、この国はゆたかになってゆくだろう、この国の栄えは千代の松とともに千年以上のものになるだろうということ。すぐれた詩人でもあった。

僕にとっての仙台は、大学時代、二十歳のときに訪れて以来、15年ぶり。大学の野球部の試合で遠征したのだが、そのときの僕はとにかくひどかった。7月の雨の中のゲームで、地がぬかるんでいたという言い訳などきいてもらえぬほど、あらゆる守備機会で失策を呈してしまった。目の前に来る球来る球全てをファンブルし、落球し、そして悪送球した。今、思い出しても、あんなにひどかったことは他にない。ひどく落ち込んだ。試合翌日の自由行動もチームメートが街に繰り出す中、僕だけは一人遠慮して辞退した。どうしようもなく、映画館に入ったことを覚えている。『スタンド・バイ・ミー』だった。最後に全員で乗った松島めぐりの風景も、しょげていた自分の気持ちしか残っていない。

遠く仙台まで行って悪夢のような結果に呆然とさせられたのだが、強く記憶に残っているのは、北方の地の緯度ゆえに朝日の射し込んでくるのが異常に早い、と思ったこと。僕らが福岡からやって(北上して)来ていたメンバーだから当然ともいえるのだけれど、落ち込んでいた僕には、「朝の来ない夜はない」というが、(それにしても早過ぎるじゃないか)と思えたほどだ。 それから覚えているのは、駅に直結している歩道橋の仕組みがよくできていること、杜の都というように街に緑の多いこと、気品のあること、そしてもうひとつ、女性がしゃれていると思えたこと。在学中、全国のいくつかの都市を訪れたとき、町の景観や歴史よりも何よりも、当時は色気の盛んな年齢ゆえ、自然と女性に目が行くことの当然の年齢だったといえばそうだが、中でも仙台と神戸の女性には強くひかれた。

それらのわずかな記憶をすくい取ってくれるように、同じことを司馬氏も述べているのが何とも面白い。

「仙台駅前の空間は、世界のどの都市にもない造形的なうつくしさがある」。この構造は、歩道橋とよぶのでなく「ペデストリアン・デッキ(歩行者回廊)」という名称であること、そして「仙台の女性の服装や身ごなしがじつに洗練されていることを知った」とも。

ページから目を上げると、幼稚園、小学校、中学校の運動会の練習風景が窓越しに見える。15年前、仙台を訪れたのも、7つの大学の体育部系クラブが集まっての対抗競技、いってみれば大学の運動会であった。そして、これから僕が行こうとしているのも、ろう者の大運動会である。

仙台到着

定禅寺通のけやき並木
定禅寺通のけやき並木

宿は県庁、市役所のある勾当台(こうとうだい)公園近くにとる。けやき並木で有名な定禅寺通りにすぐのところにある、非常に便利のいい地であった。「勾当台」という地名は、伊達正宗が城中に召した盲者の花村勾当の屋敷が今の県庁前の高台にあったところに由来している(「勾当」は盲者の官位をさす称号)。

仙台駅から地下鉄で2駅目なのだが、地下鉄を利用したのは4日の滞在中、最初にチェックインした一日目だけ。あとは全て歩いて仙台の街を楽しんだ。駅から宿までは時間にして20分。市役所方面までずっとアーケードが続いているから、賑やかな通りを歩いているだけで十分に楽しめる。仙台駅からこの周辺の勤務地に通う人にとっては、さぞや毎日、気分のいいことだろうと羨ましくなる。

ハピナ名掛丁、クリスロード、マーブルロード、ぶらんどーむ・・・と、それぞれ名称がつけられているこのアーケードの通りは都市景観大賞に選ばれたのだという。それも至極、納得できる気持ちよく歩ける通りである。天井の高いアーケードは外光も差しこんで来るように作られていてとても明るい。

再び、司馬氏からの引用──

「地面は色面と曲線でうまく造形化されていて、しかも敷石舗装になっている。街頭に彫刻的な時計もある。時計の下に小さな三体のブロンズの像が、ちょこんと置かれている。どうやら伊達政宗が欧州に派遣した使節支倉常長(はせくらつねなが)の像らしい。・・・街頭の小ぶりな装飾としてはじつに気のきいたものだ」。

それからまたアーケードには、至る所にベンチが置かれている。また、数mおきに一本の樹木が植えられ、それを囲む形の柵がこれまたそのままベンチ代わりになっていて、長いアーケードの通りの、ちょっとした休憩に役立っている。このベンチもよく見ると両側がトナカイの姿をしている。よくできているものだ。

自然に、福岡と比べてしまう。学生時代を過ごした、そして妻の実家のある福岡は今もよく行く地だ。今、九州では福岡一極集中が加速して、山口を含む近辺からものすごい人を吸い上げる、集める華やかな都市である。その福岡の都市の魅力を充分に承知して疑わなかったのだけれど、こうして仙台のアーケードを歩いていると、仙台の方が福岡よりも大きな、洒落た街であるように思えた。博多、天神、中洲、西新、香椎・・・と都市が市内に分散している福岡に対して、駅前に集中しているつくりだからなのだろうか。戦災都市だった仙台が、横浜と同様、中心部の都市計画の実行がうまく行ったことについても、著作の中で紹介されている。

中原中也の「汚れつちまつた悲しみに展」を知らせる横断幕もかかっている。「中也も仙台に来ているなんて」と思えてしまう。ついでに、伊達政宗が仙台入りして青葉城を築城したのも35歳のときだという。僕は35歳で2度目の仙台入り。

観光は、「るーぷる仙台」という循環バスでまわった程度の、ほんの少ししかできなかったが、とにかく、街を歩いていてすぐに気に入ってしまった。

9/15 競技1日目

不必要なほど天気に神経質になっていた大会だった。

TVの週間天気予報を注意してみるのは、大会が近付いたときに限らずいつもの行為だが、今回は特に気温にまで神経を張り巡らせる。仙台まで遠征して雨や台風にはあいたくはないが、一度でも二度でも涼しい方が走りやすい。「雨ではないが、涼しいくらいの曇りがベストなのだが・・・」とわがままな願いを胸にとなえる。その週間天気予報によれば、雨でなさそうなのは幸いだが、ネットで調べると、最高気温は平年(9月中旬20度)より高くなりそうだという。毎日確認したが、涼しくなる気配はなかった。

その予報が少し崩れてくれた。仙台到着後3日目、いよいよ競技当日の朝、小雨がぱらついてひいんやりとしている。雨はすぐにやんだが、午前中はまだ空も厚い雲に覆われている。このくらいなら悪くないと思っていたのだが、競技開始前30分、アップをしている最中ににわかに雲が流れ晴れ間がのぞいてくる。おまけに風まで吹いてくる皮肉な状況。まあでも、この程度なら過去数年の大会に比べれば、また、山口の暑さに比べても十分に涼しい。覚悟を決めてスタート。

出だしは悪くない。

先月末から今月初めにかけて両足に痛みが連鎖的に発生した。5月からずっと続いている右足アーチの痛みに加えて、踵にも痛みがあらわれる。昨年から、特に寒い時期に踵の痛みが出やすくなることは自覚していたのだが、まだ8月の暑い時期というのが不安を増幅させる。きっとアーチの痛みをかばおうとする分、踵に負担が転移してしまうのだろう。あまりにひどいから診察してもらう。次は左足すね。いわゆるシンスプリントというやつだ。今年2月の別大後に受診して初めて伝えられた時はついに自分もいっぱしの故障を抱えるようになったのかと思ったものだが、今度は診察されるまでもなく間違いない。調べてみると、トレーニング量を増やした初心者にあらわれやすい症状だという。その次は右アキレス腱痛、さらにハムストリングス。これはよくある筋肉痛なのだけれど。ともあれ、こんな風に右、左、右と故障箇所が伝染した。夏の疲れが現れたのだろう。走るに走れない状態だったこともあり、この1週間は思い切って休養にあてることとした。それがよかったのだろう、痛みはだいぶ引いた。

9/15 5000mスタート
9/15 5000mスタート

これまでの大会は、記録より順位を重視する皆が最初は様子見で抑えて入るのが常だったのだが、今日は自分の記録しか考えずにスタートから飛び出した。

1週間の休養で当然身体も軽く感じられる。1000mを2’58”。あとで山田さんから「速過ぎる」と言われたけれど、まだ自分で最初の1000mをどの程度で入ればベストなのか分からない。4月は3’00”で16’16”、6月は3’08”で15’59”だったから、あるいは抑えて入る方がよいのかもしれない。

5000m表彰式
5000m表彰式

結果は、第4コーナーからのホームの直線の向かい風が周回の都度気になって、今ひとつ気持ちが乗らないまま 15分53秒31 でゴール。3ヶ月前の15分台突入達成は、途中、数周先頭に立ったとはいえ、後半は高校生らと競い合い、引っ張られた形でだったが、今回はスタートから先頭に立った一人旅で自己ベストを 更新できたという意味でも嬉しい。ただ、それでももの足りない気は残る。「全力を出し切った」という感じがしない。まだもっと短縮できる気がした。それが難しい、思うように行かないのが常だといわれればその通りなのだけれど。

9/16 競技2日目

下がれ下がれと毎日のように願っていたのが通じたのか、夕方前から崩れるというTVの天気予報さえも前倒しになってくれたようで、朝から小雨が降っている。小雨がぱらつくのは昨日と同じなのだが、今日のは、はっきりと肌寒い。街行く市民も皆、長袖を着ている。翌日の新聞の天気欄によると、この日の仙台の最高気温は18.4度。札幌、新潟よりも低く、全国の主要都市で最も低い最高気温であった。

僕はといえば、Tシャツにハーフパンツ。この大会は毎年、敬老の日を含む9月中旬の連休に開催されるのだが、過去3度の参加では、9月のまだ残暑の残る暑さが強く記憶に残っている。それでTシャツとハーフパンツしか用意してこなかったのだが、今年は失敗だった。仙台も9月3日までは30度をこえたというが、やはり東北の地ゆえ冷え込む時は一気に冷え込む。他県メンバーは皆、ジャージやブレーカーを着用している小雨の競技場で、僕の間抜けさがちょっと目立ってしまった。

午後から天気の回復した昨日と違い、雨粒は次第に大きくなってゆく。風は、昨日と反対方向に時折吹いてくる程度。雨は気になるほどではない、むしろ気温が下がってくれて好都合だ。あとは風の影響がなければ・・・。正面に掲げられたポールの国旗のなびき具合をみつめながら、最後までそんなことを考えてスタートに立つ。

今日は気合が入っていた。昨夜反省した。何のために仙台にまで来たのか? いつものレース、ただの記録会とは違うはずだ。トラックは同じ400mでもここは仙台じゃないのか、と。

この大会は、一年に一度、ろう者の集まる唯一の大会である。同じ競技に情熱を注ぐろう者と親交を深められる、刺激を受けることができるという意味で、できれば今後もずっと参加し続けたいと思う。何より、この春からの好記録の原動力となった、一年かけて僕が成長できたのは、昨年のこの大会で山田さんに出会えたおかげだ。けれど、近隣地区ならまだしも、今回のように仙台(来年は長野)ともなると、監督・主将会議、開会式その他に出席するため、復路に東京からの夜行バスまで利用しての計4泊5日の滞在は時間的にも経済的にもあまりにきつい。来年の長野も含めてこれから先、いつも参加できるとは到底思えない。今年が最後になってもかまわない、最後のつもりくらいで走らねば、と言いきかせた。

山田さんは山田さんで別に期するものがあったろうと思う。いよいよスタートの号砲を待つ雨の中のスタートラインに立った時、健闘を誓い合おうとする握手の手が自然に差し伸ばされてきた。僕のアドレナリンの分泌が一気に高まった。

昨年から競技の順が1日目に5千m、2日目に1万mと変更された。選手から不満が出たように、僕もやはり特に心理的に、1日目に長い距離の1万mを走り終えておきたい。若い内ならまだしも、2日続けてのレースは足の筋肉に疲労も出てこよう。しかも自分には、1万mの方により自己記録更新の可能性が大きい。 しかし、今年の僕に限っては、この2日目の1万mが幸いした。

一週間の休養でなまっていた身体に、昨日の5千mがちょうどよい刺激になったようだった。ようやく筋繊維が目を覚ましてくれた。

最初の1000mを3’07”。昨日の5千mを終えて、ハムストリングスに加え、股関節の痛みもあらわれてしまい、どこまで足がもつのか気がかりだったが、2千、3千mにかけてもまだ気持ちよく走り続けることができる。 電光掲示板の計測器のおかげで、腕の時計に目をやらずにタイムが確認できるのも嬉しい。毎回、地元陸連の協力を得る大会だが、確か過去3回の時は電光掲示板のタイムは設置されていなかったように思う。これまでは途中のタイムをたとえ知ったとしても、それで走りにどうこう影響するものでは全くなかったが、今年から急にトラックレースに意欲的になり、ラップタイムを意識するようになった自分には非常にありがたい。

5千mを16’05”で通過──目を疑った、とまどった。身震いした。

もしかすると、もしかするかもしれない・・・。この時、新しい力がみなぎってきた。

今年6月、5千mで16分を切れたとき、ちょうど山田さんからもメールがあって、その頃からろう者記録を意識するようになった。昨年までは遠い別世界のことと思っていた、ろう者記録。今年たまたま好調な僕も、フルマラソンはまだ近付いてゆける余地があるとしても、1万mと5千mというスピードを要求される記録には、年齢的に考えても到底手の届く距離ではなかろうと思っていた。でも、どれだけの差があるのか、という意味では意識していた。

6月、7月と2度走った記録会ではともに前半5千mが16’30”で後半5千mに17分以上かかってしまっていたから、仮に実現できるとするなら、記録更新を実現するには、最低でも前半を16’15”、後半の落ち込みを16’30”にとどめる必要があると自分で計算していた。

運良く、雨のおかげで呼吸の苦しさはない。一週間の休養のおかげで足のバネも残っている。信じられないことに後半もスプリットタイムは落ちない(競技場では、1000mごとのスプリットタイムが場内アナウンスで実況されたらしい ──もちろん、選手にはきこえないのだが)。8千m ──電光掲示板のタイムに頭の中で残りタイムを計算する。9千m ──いよいよ記録更新が現実的なものにみえてきた。

残り100mを最高に気持ちよく駆け抜けて 32分26秒92 。19年ぶりのろう者記録、大会新。

タイムは環境に、運に左右される。従来のろう者記録、大会記録も青森という涼しい地で開催されたことがひとつの理由だったろう。また、この年、5千mと1万mの両方の記録が同時に、それぞれ別の2人のろう者によって出されているように、よきライバルが競い合ったことが何より大きかったはずだ。僕も仙台の地の雨という幸運に助けられて、そして山田さんという目標を得ることができたからこその出来過ぎのタイムだ。

自己ベストを一気に1分20秒縮めた記録達成も嬉しかったけれど、僕のろう者新記録の達成を「自分のことのように嬉しい」と言ってくれる山田さんの祝福が殊のほか嬉しい。ライバルの立場で、こんなに本心から素直に祝福してくれる人などそういない。僕がろう者の世界を好むのも、また、山田さんを尊敬し、目標とするのもここに理由がある。

僕のこの記録も、すぐにまた山田さんが破るだろう。2人ともトラックを走るのはこの大会程度で、何よりマラソンに重きをおいている。これからまた、2人の共通の目標である、フルマラソンろう者記録更新に向けて、そして2時間30分を突破して次は東京国際に共に出場したいという夢を持って、福島と山口のそれぞれの地に帰って練習に励む。

思えば、15年前のあの夏の仙台も雨だった。雨の中で、全ての守備機会をエラーしてしまった。思い出したくなかったほろ苦い思い出が一転、今度は最高の結果を手にして仙台の地を後にした。


過去のろうあ者体育大会出場



 

  Related Entries


Message

メールアドレスが公開されることはありません。