1969年に二十歳であること──「二十歳の原点」の疼痛

不運の方に傾いた時代の悪意

砂のように眠る―むかし「戦後」という時代があった
砂のように眠る

昨日のエントリの続きで、記事中に紹介されていた関川夏央の評が入った著作。「小説新潮」に1990~91年に連載された原稿集。1993年の刊行で、僕は6年前(2003年)に古書店で何気なく手に取ってみたら表題作の収録に目が留まったので購入。フィクションとノンフィクションが交互に配列された構成で、

読み方は自由、冒頭から順を追って読まなくともいい。小説だけを読んでも、評論だけを読んでも構わない

と前書きに記されているとおり、僕も表題作しか読んでいない。本というのは基本的にそれでいい。偶然、手にした本の中に興味あるフレーズがあって購入し、そしてまた時を経てこんな風に思いがけず再読の機会を得る、偶然が生む有機的なつながりが面白い。

「戦後」という時代の精神

本書自体は「戦後の時代考証」とでもいうべき内容である。

ただ、著者が高野悦子と同年生まれ(高野が早生まれなので学年は一つ下)というだけに本章には、当時の客観的な説明──物価であるとか国民所得であるとか──以上に、高野に寄り添い、精神の内面に入り込んでくる姿が強く伝わってくる。

痛ましさを一層、助長する感さえある。ただでさえ心の叫びを綴った裸の日記を、評論家の手でさらに内面が切り開かれ、えぐり取られてしまうような。

(刊行当時、)著者があまりにもいたましく思え、本をそのまま棚に戻した。

そしてこのたび、二十年を経て読み直した。正確にははじめて精読した。すでに彼女の二倍あまり生きた身だから、多少の距離を置いて日記を眺めることができるようになってはいた。しかし、いたましさの思いはかわらなかった。

昨日、今日、と僕も「二十歳の原点」を22年ぶりに手に取ってみた。もう醜い大人になってしまい、冷めた視線になっているかと思いきや、今でも心にぞくぞくと伝わってきた。むしろ受けとるだけで精一杯だった若い頃よりも、今の方が関川氏同様、一行ごとに、その背後にあるものを覗こうと向き合う姿勢が当時のものと逆になっていたようなところがあった。

悩みには悩みを忘れる資質があわせて必要である。いい加減なところで笑って逃げる性癖も欠かせない。悩むことに不向きな学生までを悩ませ、自分だけを責めさせつづけたのは、やはりその時代が持った思潮の、あるいはたんに流行の残酷な仕打ちだろう。


どの時代でも学生たちは精神を動揺させがちで、ときに投げやりな気分に陥りもするが、なにかの気晴らしによって危機を脱する。彼女の場合、めぐりあわせが悪かった。そして、やたらに騒々しいばかりで内実をまったくともなわなかった時代そのものに、秤を不運の方に傾けるわずかばかりの悪意があった。


 

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