翔ぶが如く(四)

薩南の天

明治七年、西郷と薩摩士族が忽然と消え、政府から離れ消息が絶えた。東京や各府県の反政府的士族達は西郷の決起を待ち望んでいたが、西郷は山野に隠れこんで動かない。

西郷は藩士らを軽挙させず待つことに徹底して起臥していたが、ついさきほどまで参議の重職にあった江藤新平が佐賀士族とともに武装蜂起した。江藤は維新政府きっての頭脳をもちながら、維新で遅れをとった佐賀から旗をあげねば再び薩摩にしてやられるという論理で自分の行動を気ぜわしく、政略的戦略的に何の計算もない軽率なものにしてしまった。江藤は自分が立てば西郷もも立つと期待したが、議をいうなと薩摩で嫌われる「議」をもっとも得意とした江藤よりも、議論を悪徳とする薩摩のほうが政略の基本を誤ることなく動こうとせず、江藤の乱はあっけなく敗北した。

佐賀の乱には熊本の鎮台が、戦闘に参加した最初の政府軍として出動した。大久保も自ら鎮定に出向くという素早い対処をとる。佐賀ノ乱は潰えるべくして潰えたものだったが、この乱を政府が体験することで以前と見違えるほどに強靱な権力になった。佐賀ノ乱に続く明治九年の前原一誠の萩ノ乱、熊本の神風連ノ乱は結果的に、政権の体質の強化に役立つこととなった。もし佐賀ノ乱がなければ、明治政権は後に西南戦争でもろさをさらけだしたに違いない。さきに武市による岩倉襲撃を機に大久保と川路がポリスを大増員したように、無計画な叛乱は政府の統制装置を強化させる以外のなにものでもない。江藤は戦場を脱出して西郷との面会に向かうが、江藤が司法卿時代につくった警察網に自らかかってしまう。

鎮西騒然

江藤の最期が世間に与えた衝撃は深刻であった。

それまで東京から帰った薩摩士族をはじめとする帰郷者達の気分は、幕末に倒幕の大工作をし、戊辰に官軍の中核として関東、北越、東北、蝦夷地の山河をこえて連戦してきた自分達の壮気が明治維新を成立せしめたという自負が強く、政府に対する前途の観測を甘い自己肥大の自信の上にもっていたが、前参議であり正四位の朝臣である江藤に対し、大久保が梟首という惨刑で報いたとき、江藤の運命があすの自分達の運命であり、大久保の引率する太政官の意外な強さを思い知らされることとなった。

かつて、前将軍徳川慶喜や戊辰のときに官軍を手こずらせた越後長岡藩、最後まで抵抗した会津藩ら、国事犯に対しても寛大に待遇してきた明治政府が、江藤に対しては、行政上最高責任者の太政大臣、また他の参議らの意見を省みず、大久保一人の権力を持って官憲国家の強大さを示してみた、反政府分子に戦慄と恐怖をあたえようとしたものであった。

私学校

西郷が設立した、のちには鹿児島県の半行政機関にまで発展する私学校は、沸き立っている壮気を圧えるための装置であったかもしれない。

ときの鹿児島県県令大山格之助綱良は、西郷、大久保に並び器量が大きく、とくに戊辰の時勢に武功の大きい薩摩人で、藩主島津久光に気に入られたこともあり政府に入らず鹿児島県政にたずさわることとなった。政府のやり方に鬱屈のある大山は、新しい文明を志向する新政府の方針と背反し、薩摩の士風、精神を教授する薩摩武士の伝統に回帰する私学校の方針に賛同し尽力した。

私学校のほかに、砲隊学校や賞典学校(外国語の習得)が設けられ、また、以前からあった医学校もあったが、西郷は、この時勢でもっとも重要とされた工業を興すということはしていなかった。西郷の師匠というべき島津斉彬には、その思想と政治的実績があり、産業国家を形成できるだけの基礎を築く先覚性があったが、西郷には資本主義というものが理解できなかった。

西郷は革命の主導者でありながら、革命に成功して目にすることとなったのが世界の趨勢である、西郷の忌避する資本主義であったということ。大隈重信はその回顧録で「魯直にして経綸の才乏しき西郷、板垣の徒」と充分過ぎるほどの侮蔑語で批評している。西郷は資本主義というより保守性からくる農本主義で、私学校も西郷の膨大な感情に感化された感情集団になって行った。

そのひとびと

西郷の周囲にいた人物の中で、村田新八についてかかれている。

新八は、西郷の同調者の中では珍しく明治四年岩倉使節団の洋行組のひとりであった。洋行組であるにもかかわらず、帰朝後、唯一人の例外として征韓派に走る。

新八に同じく、西郷を強く思慕していながら、海外から帰ってみるとその西郷が政府を去っている。その状態に自らの進退を決めかねていたもう一人の薩摩人として、日本で最初の英和辞書を刊行し、米国へ留学し、新八のわずか数日前に帰国していた従弟の高橋新吉がいた。

新八は、新吉から西郷の一件を告げられた後、佐賀ノ乱のあとに数日間在京していた多忙中の大久保を訪れて西郷の下野の事情をたずねる。永年、西郷と大久保を見てきた新八には、征韓論の衝突は両大関の衝突であり、両人が議論を異にする以上、日本中のたれも調停し妥協させることができないと悟る。勝海舟に「大久保利通に亜ぐ傑物」と高く買われ、西郷、大久保両人にも君子の典型のように評価されていた新八は、最初、従弟の新吉とともに、鹿児島に帰って西郷の意見をたずねたのち進退をきめたいと思った。二人は船を待つ横浜のホテルで夜を過ごしたが、同様、大久保に是があることに胸中は同じであった。けれど、新八は闇の中で考え続けて新吉との鹿児島帰りを翻意する。自分は義理として薩摩に帰らねばならない。けれど、新吉にその必要は無く、やがて失落してゆく西郷党に従弟を巻き添えにすべきでもない。新吉は東京に残るよう命じて、自らは鹿児島へ帰ることを決めた。大久保に会った後、鹿児島への船を待つ横浜のホテルに泊まっていた二人の生別と死別のときであった。

当時大蔵省に籍を置き、のち勧業銀行総裁になる新吉は、明治四年の廃藩置県が西郷・大久保の対立の原点であるとみている。不平士族のさけぶ征韓論は、陰には廃藩置県へのうらみから出発している。幕末から戊辰にかけて、武士階級がその特権を奪われると知って連戦したわけではない。廃藩置県は藩と士族階級を裏切った。維新の結果が廃藩置県になることを自覚していた西郷は、すべての責任を負わされる形で廃藩置県を承知し、不平士族の憤りを抑え続けていた。西郷にとってこれほどの苦しい仕事はなかった。東京政権が確立したのは廃藩置県のおかげでありながら、大久保にはその西郷の苦しみを理解する情緒感覚に欠け、西郷の持ち出した征韓論を蹴った。

この小説自体、無数の挿話の積み重ねであるが、新八と新吉の従兄弟の別れを描くように、戦の中に随所に情緒あふれる物語が重なっている。

ふたりは・・・征韓論の是非については意識的といっていいほどに避けていた。

「非だ」と、両人は叫びたかったであろう。しかし村田新八は遙かな薩摩にいる西郷に遠慮し、従弟の高橋新吉は西郷に遠慮をしている従兄に遠慮をした。もっとも村田新八は西郷に服従して遠慮しているわけではなかった。あるいはまた尊敬のあまり遠慮をしているということもあたらないであろう。村田はかねがね西郷というのは、海のような悲しみを湛えた存在であるように思い、いまここで征韓論の是非という、翩々たる議論の末梢を論じて西郷への評価を左右することをはばかりたかったのである。

高橋新吉は、そういう従兄が好きであった。しかし同時に、かれは国家の運命は大久保利通こそになうべきものであるとひそかに思っていた。

迷走の府

物語は、明治七年、新八の鹿児島帰県まで進んでいるが、この章は、明治初年からの征韓派・非征韓派のあらそいのなかで起きた国家事件、台湾出兵について。

台湾出兵は、明治四年十一月、宮古島船が漂流して台湾南端に打ち上げられ、乗員が先住民の高砂族に大量虐殺されたことを発端として外交問題に登場する。この時期、琉球は日本と清国の両属の関係にあったが、複雑なことにこの宮古島船は、清朝への朝貢であった。また、台湾は十七世紀、清朝が福建省の管下に入れるまで歴史的にながく帰属が不明確な領土で、十六世紀ごろは日本、オランダ、スペイン人が根拠としていた。明朝が満州の清軍にほろぼされ、清朝が台湾府を奥にいたるも、この時期、琉球、台湾をめぐる日本と清朝とにおける国家、国民の観点で曖昧な面があった。

事後処置にあぐねていた明治政府に、駐日公使の米人デ・ロングの軽率な提案も外務卿副島種臣を後押しして報復の台湾出兵が現実的になる。副島の征台策は、明治六年、征韓論をめぐる騒然たる対立、混乱の中でいったんつぶれるが、明治六年十月の西郷下野後、再び、大久保の詐略として浮上する。

征台策は、最初、西郷の弟の従道による、兄の鬱憤と兄に取り巻く薩摩士族の血を鎮静させるための粗暴な政策案であったのを、長州派がすべて反対する中、大久保両人とのあいだの郷党的動機から派兵の進められたものであった。多分に評論家的であったにせよ、人民のための政治を考える点で千年の歴史に堪えるものをもっていた木戸孝允が征韓も征台も当然に反対したのに対し、征韓論を潰した大久保や従道が、西郷のエネルギーを衰えさせようとする内政の問題として取り上げ、大久保の郎党として大隈も理に合わない征台論事務局長官に就くなど、きわめて公的要素の少ないものであった。

明治七年、佐賀ノ乱の勃発と征台と、大久保はこの時期、叛乱鎮圧と外征という二つの大事業を一人で指揮し、実行していた。この当時、各国外交団から嘲笑と軽侮をもって接せられていた中で、台湾出兵という暴挙、愚挙が進められようとしていたが、西郷の征韓論の怨念を払わせるための代用策として、大久保による征台策が実行された、いずれにしても国際関係上、物騒な案のどちらも薩摩人が主唱した。

長崎・台湾

征台のための準備基地、長崎に、台湾蕃地事務都督として軍艦を率いてやってきた従道、また事務局長長官としての参議・大蔵卿大隈が滞留していたところ、在日外交団の圧迫に押された三条・岩倉による政府の征台中止という命令が使者によりもたらされた。三条が使者に持たせた手紙には、大久保に迫られて征台を決意し、勅を乞い、大隈や従道を任命していながら、今度は外交団の横槍であわただしく中止命令を出すという、三条の政治家としての無能と無定見さがあらわれていた。

大久保の意見の入っていない三条の命令に不安をもちながら、元々、征台に信念を持つわけでない大隈は折れたが、従道はきかなかった。幕末の頃から頼りにならない観念的にすぎない勅をたてに自分の立場を正当化し、ついには命令の翌日、独断で軍隊の一部を出発させるという既成事実をつくった。のちに大久保が長崎に加わって従道の独断を追認するが、山縣陸軍卿の下にある陸軍大輔西郷従道が陸軍卿にも相談せず、また、大久保内務卿も国民に報せず、品川で借りた米国船を長崎で買い上げてでも夜盗のように船を仕立てて強行したこの一件は、官製の倭寇といっていい詐欺の手口で、日本史上の珍事件といえる。

日本は維新によって君主国として出発したが、天皇の独裁は歴史的慣習として認めていない。維新は徳川幕府をたおして天皇の親政にもどすのが建前であったが、関白や上皇、法皇が政治を代行する中世と内実は変わらない。あくまで政治は太政大臣以下が担当する。形式的に天皇の裁可を経る。勅分の出るときも太政大臣が起草の責任をもってつくり、それに天皇が御名を書き御璽を捺す。この天皇の一の正確は過去の慣習の延長として自然にできあがった。

征台でみせた奇術的な軍隊使用は、明治憲法に入れられた統帥権により、後に体質的なものとして日本国家にあらわれるが、遺伝的症状として露骨に出たのが昭和期に入っての陸軍の暴走であった。陸軍参謀本部が統帥権という奇妙なものを常時「勅命」として保有し、内閣と相談せずに軍隊使用できるという妄断のもとで満州事変、日華事変、ノモンハン事変をおこしてその都度内閣に事後承認させ、ついには太平洋戦争をおこして国家を敗亡させた。台湾出兵はその先例をひらいた。

大久保は、外交団の危惧する日本の帝国主義的膨張を遂げようとする意思はなかった。薩摩に帰臥する西郷という存在が、あたかも救世主として日本を覆うほどの巨大な像となり、政府の実像より膨張してしまっている時勢の魔術をおそれ、西郷の像をふくらませている時勢の瓦斯をすこしでも抜こうとして征台の策を企てたもので、それほどに西郷の存在には、そのまわりに戦慄、昂奮、反撥をあたえるような不思議な神聖人格といったものがあった。

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