翔ぶが如く(三)

激突、分裂、右大臣

明治六年、征韓論を巡って廟議は決裂した。

征韓論は、この時期の日本の現実からして愚論でしかなかったが、維新によって出来上がった新国家に落胆し、民族に内在する勇猛心を引き出すために、精気を与え、毅然とした倫理性を日本人のものにしたいという願望を圧倒的な詩的感情量をもって西郷は推し進めようとした。

決裂した廟議の最中、三条実美の昏倒を政局転換の機に利用しようと、伊藤博文が立ち回った。西郷や木戸のような哲学はもたないが、新国家の課題が山積する時代は伊藤のような処理家の手腕を必要とした。伊藤により三条の退陣と引き換えに登場を確定させらた岩倉具視は、副島種臣、江藤新平、板垣退助の参議にかつがれる形で岩倉邸に押しかけてきた西郷の人格的威圧に圧迫されながらも屈せずにはねのけ、西郷の心中に政治的敗北を認めさせた。

決裂と策謀による敗退が確実になると、鮮やかなまでに西郷は一転、退去(退京)に向かう。

挿話

反征韓論者として、征韓論つぶしに勝利したものの、西郷を深く敬慕するがために西郷の退去に対し悲嘆に暮れる薩人黒田清隆のことも書かれている。豪酒家でアルコール性痴呆症の欠陥から評価に難点はあるものの、明治の初期政権においてもっとも実務上の仕事をした人物の一人、何事かを成したという点として、北海道開拓次官として北海道近代化の基礎を築いたこと。

内村鑑三は、黒田の追悼文に、黒田がなければ札幌農学校はなく、自分は札幌に行かなかった、札幌にいかなければ聖書とキリスト教に接しなかったと云っている。クラークを招へいした黒田にとっても最初、官立学校において特定宗教の教育は許可しがたく大議論をしたが、クラークを正しいと思うようになると人に非難されてもクラークの教育を守り抜いた。開拓史の予算でアメリカへ遣った五人の留学女学生の中にわずか九歳の津田梅子もいたが、内村の論法でいえば、黒田がいなければ、津田梅子は渡米せず、後年の津田英学塾もなかったろうということになる。

退去

西郷が退去すると、西郷を慕う薩摩系の近衛士官、下士官も堰を切ったように続いた。西郷に愛された桐野利秋、別府晋介、また近衛指令部長官である篠原国幹でさえ、同郷の黒田清隆の説得もきかなかった。篠原にすれば、今の国家は、薩摩の兵が鳥羽伏見で戦い、上野で戦い、関東で転戦し、北越において難戦し、東北の山野を駆け、箱館へ上陸し、五稜郭城塞から打ち出す弾雨をくぐり、血と戦いの中から稼ぎ出したもののはずの、その国家に裏切られた思いが強い。

大久保は後に常套手段となる天皇の権威を藉りて幹部のほとんどが薩摩人で占められている近衛軍の辞職騒ぎを抑えようとしたが、天皇の権威はまだ小さく、維新の最大の功労藩である薩摩藩が、維新政府の手で滅ぼされてしまった、新政府に裏切られたという意識は天皇みずからの慰撫によっても止めることが出来なかった。

陸軍卿

西郷が去り薩摩系軍人の大量辞職で政府が土崩するかという情勢下、全国の鎮台を巡視していた陸軍卿山県有朋が東京に帰り、長州の先輩木戸孝允に軍の維持、近衛の再建を申し渡される。徴兵令を基礎にした鎮台制を実現しつつあった実務という点で驚嘆すべき能力を持つ山縣は、この難題と混乱の中で自分の栄達の計算を忘れなかった。

山縣の人生の栄達には強い運がつきまとう。つねに頭上に天才を戴いてきたが、不思議に悲鳴により消滅する。幕末の高杉の病死、戊辰戦争で彗星のように出現した大村益次郎の維新後の非業の死、そして今、西郷が去った。やがて大久保も非業にたおれると、明治中期以降、文官と軍人の二つの世界の官僚組織の頂点に立ち、明治権力の法王的な存在として、何者からも敬愛されず、何者からもその魔力を怖れられる男になってゆく。

大警視

大警視川路利良は、国家の繁栄と人民の幸福をもたらすものが新しいポリス制度であり、文明の基礎に警察があるとして情熱を注いだ。西郷の引き立てで警察制度の任を務め、渡仏することになった恩顧を受けながら、西郷、郷党のことは私事として国家を担う大久保の信念の方に随った。

西郷の辞職の同じ時期の話題として「小野組東京移籍事件」に触れられている。政府が東京に移ったのを機に、明治六年、小野組も京都を引き払おうとしたが、ときの京都府大惨事槇村正直が職権発動してこれを握りつぶした。司法卿江藤新平の任による京都裁判所長は槇村を有罪とするだけにとどまらなかった。薩長中心の維新、維新に乗り遅れた肥前出身ということで藩閥に劇烈な反撥心のあった江藤は司法権の独立を徹底するため、罰金刑にしたがわない槇村を逮捕し東京で拘禁した。この槇村をかばい救い出そうとしたのが長州藩の同郷木戸孝允で、江藤の下野後に手を回して槇村を釈放させた。この槇村の釈放に劇烈な批判を建白書にして岩倉に宛てたのが、法は万人に平等であり、法の源泉が国家であるという強い思想を持つ川路であった。大久保はその明快な国家論が、西郷にしたがい藩閥意識の強い薩摩人から出たものであることを喜んだ。

事件だけからすれば悪官員の印象をあたえる槇村であるが、京都府出仕を命じられて、明治後の地方官のなかではもっとも業績の多い随一の人物であった。明治二年の早い時期に京都市内に日本最初の小学校を創設しただけでなく、図書館、梅毒治療所(駆黴院)、外国語学校、女学校(女紅場)、窮民授産所、精神病院(癲狂院)、測候所(観象台)
、博物館、画学校、勧工場、舎蜜曲など、彼が京都で行った事業はどの府県よりも先駆的で、文明開化にともなう施設はつねに京都府が先鞭をつけた。京都人の誇りでもあった。明治初年以来半世紀の間、京都府政は槇村の事業からほとんど前進していない。

明治七年

明治六年十月下旬、西郷が下野すると桐野達も潮の引くように薩摩へ帰ってしまった。

翌明治七年、東京に残留した薩摩人海老原穆は、新聞発行して政府を攻撃する「集思社」をつくるため、旧幕臣の芦名千絵の住む富士見馬場の屋敷の長屋を借り受けた。千絵の兄は彰義隊として上野に籠っていたが、上野戦争の前に斬られた。新政府への復讐心をもちながら、兄と剣闘におよんだという桐野らが、政府をつくった薩摩人でありながら、政府を倒そうとしていることに強い関心をもっていた。

川路はこの時期、鬼神のように職務に没頭し日本の警察をつくっていく。一月に襲撃された岩倉具視の事件を機に、かねて準備していた「警視庁」が翌日に発足する。政府は、岩倉遭難事件の下手人、土佐士族武市熊吉らの捕縛を機に、治安問題に対し、ポリスの増強、大久保の威権をつよめるなど、東京の権力と地方において広範囲に湧き上がりつつある反政府気分との対立がけわしくなっていた。

春の霜、混沌

日ごとに人を集めている海老原の集思社に、岩倉襲撃の翌日、やがて自由民権運動の先唱的運動者になる肥後白川県士族の青年宮崎八郎が訪れてきた。すでに反政府運動家のあいだで名の轟いていた宮崎には川路も目をつけていた。宮崎は、薩摩人が英雄と熱狂的に思っている西郷のことも隣国の人間として冷静にみていた。

征韓論決裂後の西郷の下野という衝撃は、その一事だけで歴史をゆるがした。宮崎の登場、また板垣の民選議院設立建白書など、反政府思想や世論がごうごうとして沸き起こってきた。

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