翔ぶが如く(五)

波濤

日本の台湾への軍隊出兵について外圧(外字新聞、特に英国)は強かった。元来、かつて攘夷の志士が樹立した維新政府は、国際社会に入ると同時に自国の弱小認識せざるを得ず、大国の気息をうかがうような、幕末の英気を失ったひ弱な態度をとった。その政権が、大久保をはじめとする経験の薄弱さから粗暴な征台という積極的態度をとった。甘い予測を裏切り、清国も抗議書を送りつけるなどの強腰に出て抜き差しならぬ事態になってしまった。

大久保は、戊辰のときも戦火をくぐらなかったが、重大な危機に遭遇すると隠退へ逃避したがる性癖の西郷よりむしろ苦境に堪える強さをもち、自己の責任に不退転の覚悟を有していた。あわてて撤兵しては国家の体面にかかわる。奇矯な出兵の理由と、また撤退の理由とが面子の上で必要だが、初代駐清公使の公卿出身柳原前光らの拙劣な交渉もあり難航していた対清外交にひとりで決着をつけようと決意する。

征韓論に反対したはずの大久保が、戦争の決意をもって廟堂の同意を得るという賭けに出る。戦争を賭けにして賭場に臨み、戦争をせずに外交の果実を獲ろうとする持論であり、政府内の反対を強引に押し切った。三条にしてみれば、かつて西郷が遣韓大使を求めようとしたのと同じ構図で、大久保が渡清大使たらしめよと運動するものだったが、違うのは、大久保が外交上の駆け引きとして戦争を使うつもりであることを筐底に秘めていたことだった。

大久保は明治七年八月一日付をもって全権大使としての勅命を受ける。最後の反対の砦は陸軍卿山県有朋で、人民中心の議論から抗議する木戸の後ろ楯もあり執拗な反対にあった。山縣の反対に人民主義の思想はなく、ただ陸軍に外征できる実力はないという現実と、国内の不平士族、とくに薩摩が政府の命令で動くのかというものだったが、大久保は皇帝陛下の宸断を仰ぐのみという、天皇制の原型にして、のちに山縣がそれを制度化してゆく一言で沈黙させた。

北京へ

清国は列強に土地を割譲してきた。英国に香港を、フランスにベトナム支配を、ロシアに黒竜江、アルグン川流域を割いてきたが、それらはいずれも清国が手も足も出ない強国であった。清国にすれば、アジアの小国、日本が真似ることは笑止であり、清国に既得権をもつ英国をして日本を始末させる見通しをもっていたろう。清国から出兵費負担という意味の賠償金をとることで国際的な面目を立てるというには、大久保には至難の交渉であった。

大久保は自分の権力を正当化し、増幅し、その専制体制を確立するために天皇のを絶対的存在として奉る体制をとろうと天皇の存在を巧緻なほどに利用した。明治国家の原型をつくってゆく過程がここにあり、かつて佐賀ノ乱鎮圧に当たり、行政と軍事、それに司法権までにぎった思想から、天皇の代行者として天皇自ら事を処するに同じという国書まで携えるほどの全権をもった。

総理衙門

大久保は天津に上陸したが、この地で清国の事実上の対外交渉権を握る最高の実力者で北京を凌ほどの個人的勢力を築いた李鴻章に対し表敬訪問ひとつせずに黙殺を貫いた。柳原の外交団が談判している北京の総理衙門に突き進み、大久保自らが談判場裡に臨もうとした。

皇帝専制の国であった中国は、皇帝が宇宙で最高の存在で対等の外国というものは存在せず、他国にも対等の礼は用いずにいたが、アロー戦争(第二次アヘン戦争)後、北京に常駐することとなった英仏露米の公使への応接用に総理衙門、正確には総理各国事務衙門という形式上清国の対外問題を処理する機関が設けられた。

清国の用意した酒宴の場で大久保はいきなり質問に入る。台湾の生蕃地域には清国の官庁がなく、万国公法(国際公法)に照らせば政堂も設けていない台湾生蕃の地は清国の属地とは言い難い。大久保の用意したこの質問は、航海中からの随員として法律に明るい司法省傭いの仏人ボアソナードに問いただして練り固めたものであった。

北京の日々

清国の総理衙門と大久保の交渉は予想以上に長引いている。「生蕃ハ清国ノ属地ニアラズ」との大久保の主張に、清国側も感情的に硬化して台湾島は清国のものであると声高に繰り返す。第四次談判まで三週間が経過した。大久保はその常人ばなれした粘着力で、フランスの法律学者の一説に過ぎない国際公法の解釈に依った主張を執拗に繰り返す。かつて維新において苛烈な裏工作をほどこした大久保が、この談判では舞台裏の工作や取引の手を用いず、議論のみを武器にして弁論により勝ちをとろうとしていた。

談判の対象となっている台湾で、駐留する従道以下三千の将兵のほとんどがマラリアに罹って高熱と衰弱のために死んでゆく惨況を報されていた大久保は、双方、決裂をほのめかして永久に平行線の主張になっている談判を何とか浮上させようと懸命に活路を見出そうとした。主戦論、非戦論双方の議論が沸騰した末に、同行の井上毅の漢文の才、また田辺太一による国際常識で刷きあげられた照会文を事実上の最後通牒として送付した。

この時期の日本にとって英国は、かつて戊辰戦争での薩摩郡の銃砲艦船の多くを購入した恩義や、新政府樹立に伴う膨大な外債のほとんどを占めるという現状から粗略にすることのできない国であったが、大久保は、清国側に立って両国の調停に乗り出そうとする北京駐在の英国公使ウェードを冷遇し、仲裁の条件を有利に進めようといなし続けた。

ウェードは、むしろ日本は台湾でなく朝鮮に手を出すのが利益だともけしかける。大久保に接する真意の一つとして、ウェードの側には、英国の帝国主義外交上の政策があった。極東では、資本主義後進国のロシア帝国がシベリアからカムチャッカ、樺太にまで南下していた。英国は、ロシアがやがて満州と朝鮮に手を出し、英国が権益を独占している清国にも重大な圧迫を加えてくることを怖れた。ウェードは、清国と戦争の可能性のある日本を直接に怖れるのでなく、日本が清国で事をおこすことによりその混乱に便乗しうる独仏両国を、またロシアの南下政策を怖れていた。

後年の日露戦争は、このときに芽を出しており、日本は英国の支援のもとにロシアと戦った。一方、ロシアを支援したのが、英国の権益圏を攪乱しようとする仏独であった。ただ、このときの大久保は、台湾や朝鮮を欲する領土的野心があるわけではなく、国内の不平士族の血気を鎮めるために軽率に出兵した体面を保つためだけに、撤兵の名義と条理の正当性をあたえる賠償金を求めた。

五十万両

北京にいる大久保のこの平和的解決主義は、好戦的気分の沸騰する日本国内の不平士族にはなまぬるいものとうつり極度の不満をあたえたが、大久保からすれば清国に賠償金を出させることで引かない強硬姿勢を貫いていた。

明治維新は攘夷を掲げて革命政権として成立しながら、たちまちに列強の帝国主義外交の強力さを思い知らされてその恐怖に腰が抜けたようなだらしなさをみせた。政権の列強に対するだらしなさを憤慨する在野世論は、ちょうど幕末の攘夷論のように加熱しており、その世論が武装化すればもともと瓦解寸前の見方さえある東京の政権はあすにでも倒されるかもしれない。明治初期政府の主導者である大久保にとって、国家の体面を保つという背後には弱腰を見せるわけにはいかないという形而下の事情があった。

第七回の談判で清国は、生蕃の害に遭った者への大皇帝による慰問金を提示するも、大久保の求める金額と書面が得られずに決裂というかたちになった。

帰国

結果としては、日新両国の融和に立ち回った英国公使ウェードの、償金と日本の義挙であることの書類化という案で事態は急転直下解決する。台湾が無主の地であるという日本の詭弁は英国にも認められるものでなかった。ただ、大国の清国が西欧化せずに固陋な態度をとり続けることに英国をはじめ各国が同情的でなかったことが日本に有利に働いた。ウェードにも、日本に道理はないとしつつ、清国の老大国の態度を懲らしめるべきという気持ちが働いた。

もっとも、ながく海禁した清国、鎖国した日本と朝鮮らのアジアの国家群にとって産業革命や西洋諸国の発想を共有できるはずもなく、欧米各国の進出はアジアが需めたものではなく、ただ西洋諸国の国家的欲望で本来無縁であるべき存在のものであった。

いずれにしろ、清国がつぶすのは容易であったに違いないわずかの征台部隊しかもたない状況で、交渉を重ね、機略を用いて解決に導いたことは、大久保の大きな成功であった。

壮士

東京の集思社を訪ねた白川県(熊本県)士族宮崎八郎のことを創設者の海老原は高く買っていた。将来西郷が起つとき、隣県熊本の不平士族を統率する人物として期待していたこの若者のことについて書かれている。

志願兵として台湾にいた八郎は、まだ見ぬ西郷を冷笑したい思いを持ちつつ戦争が文明であると信じて疑わない激しい反政府主義者で、戦争の拡大を欲していたにも関わらず台湾駐屯軍の撤退することに大きな失望を感じていた。幕末より続いてきた攘夷気分という鬱懐は、かつて幕末において幕府をゆるがし、争乱を起こさせ、ついには明治維新の主因になったが、世が変わって一部の志士が東京で大官になり、彼らはいち早く開明化して、野に満ちた鬱懐を置き去りにした。その晴らされない野の鬱懐が鬱勃とたぎっているのが、八郎の精神状況であった。もっとも八郎は大久保をもって奸物、悪党とする野の気分を激しくもちつつ、その反政府主義に理論はなく、気分の段階でしかなかった。

台湾本営で北京談判の経緯を説明した大久保の帰国に続いて、西郷従道配下も撤兵の路につく。徴集隊の八郎は、東京の反政府党の反応を見聞したい思いで従道とその司令部が乗船する東京丸に割り込んだが、従道麾下の征台軍が熊本鎮台の主力として熊本城に帰るとされ、また、八郎自身も台湾瘧の症状が出て長崎での下船に従わざるを得なかった。

肥後荒尾村

宮崎八郎が、マラリア熱で衰弱しきった体で荒尾村の自宅に帰ったのは明治八年の寒の頃で、土間からかまちへ足があがらなかった。

征韓論から台湾従軍までの八郎は、文学的気分の上での領土拡張論者であったが、帰郷後ほどなく劇烈な自由民権運動者になる。兆民訳のルソーの「民約論」にはこの時期触れなかったかもしれないが、前年明治七年の正月に東京で旗揚げした板垣退助ら辞職参議数人による「民選議院設立建白書」の影響はあったに違いない。

肥後(熊本県)という土地は、日本では数少ない思想的風土で、互いに小異を譲らない議論好きで、党派ごとに相屹立するというところがあった。戦国期も小党が乱立してついに統一大名が出ず、豊臣政権後に秀吉が封じた尾張者の加藤清正による統治でようやくおさまったほどの難国であった。幕末の争乱期から八郎の帰国した明治八年まで、肥後には党派が五つあった。

学校党(藩校時習館出身者の結社による藩官僚党)、実学党(学校党対抗勢力で、殖産興業を志向し現実の政治と行政を説く)、敬神党(神界に永劫の生があるとして、やがて神風連になってゆく)、勤王党(明治になってからの勢力はほとんど無い)、民権党(八郎らの同志により発足)で、この時期、権令として熊本を収める安岡良亮は士族達を四分(勤王党を数えない)させている四党派の統治に難渋していた。県では民権運動を怖れる空気が強かったが、八郎は安岡権令に直接会って八郎の主張する学校設立を許可する。

植木学校

八郎が興した植木学校は、政治結社のつもりで反政府運動の拠点として兵士を仕立て上げようとしていたが、どのようにして運動すべきかその方法が見つからない。

村の政治を人民の手で議する民会を興し、戸長を民選にすることから始め、県会を開設させようと建議書をもって白川県庁を訪ね、ちょうどこの頃、安岡県令が全国地方官会議で不在ときくと、いっそ自分も上京して県会開設の談判をしようと考えた。この八郎の焦燥は、五十万石という雄藩意識をもち、平均的教養の水準は高いという自負心をもちつつも幕末に時代の魁をしなかったために薩長藩閥政府の支配に甘んじざるを得なかった当時の肥後人の気分が強かったからで、八郎は、いち早く中江兆民のもとに飛び込んで、板垣退助などの英国流の政治意識よりも突き進んだフランス流の哲学的人権説を肥後に導入したかった。

明治八年・東京

明治八年一月、伊藤博文らの奔走で大阪会議が開かれた。伊藤は、木戸と板垣を再入閣させるために木戸の素志である斬新的民権論に沿う三権分立の思想を盛り込んだ新体制として、上院である元老院と下院の地方官会議からなる立法府、大審院を設けた司法府、内閣各省をもって行政府とする提案を用意した。伊藤を喜ばせたこの案は、伊藤の機略、政略から出たもので、東京政権への不満を民権体制をとることによって吸収しようとしたものであった。

八郎が再上京した明治八年の夏は、反政府的言論に対する弾圧法としての「讒謗律」が政府により発布されるなど、八郎のような思想家にとって激変と呼ぶような騒然としたもので、こうした情勢下に八郎は中江兆民宅の仏学塾を訪れた。

兆民は使節団に同行する留学生として、パリ・コンミューンが崩壊したあとの第三共和政成立期にして求心的自由主義がもっとも華やかな時代のフランスでルソーの思想に深く惹かれた。幕末に奔走した志士たちは、アメリカの独立革命やフランス革命に漠然とした憧憬をもちながら、この二大革命の理論と思想の根拠がルソーにあることは知らなかった。もし幕末にルソーの思想が入っていればその革命像はもっと明快であったに違いないし、兆民が十五年前に出ていれば、明治維新という革命に、世界に共通する普遍性が付与されていたに違いない。

ルソーも兆民も、人民をもって国家の当然の主権者であるとした。社会は契約によって成立しており、その契約は、主権者である人民が個々に相互に社会的結合である国家を契約したものである。ルソーも兆民も、このため立法を重視した。立法は人民によっておこない、そこで成立した法律が、国家を運営する。八郎は明治八年の夏、兆民とルソーの『民約論』に触れることで雷に打たれたような感動を発した。

政府はこのフランス学を敵とした。フランスから輸入された急進民権思想が若い不平士族の心を魅惑しつつあるのを、ドイツ学によって防ごうとしている。

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