冷えない感情の溶岩
孤独を望んだのではなく
前回、「千年の祈り」を記した際に堀江敏幸氏の評を少し引用したけれど、あらためて氏の解説(推薦)が新潮社のPR誌「波」に掲載されていることを知った。
ここに、わたしたちがたどりつくために 「波」2007年8月号
僕も前回、「弱者、というと抵抗があるかもしれないが、・・・何かしら傷を抱えた者である」、そうした彼らへの「目線の優しさがいい」「弱みであり傷であり、を淡々と描く、けれども深く近く寄り添ってその心のひだを丁寧に描き抜くところがいい」と述べた。
堀江氏評とほぼ同じことをいえていたようで、もちろん、先方は名うての文学者にして評論家としてずっと洗練された表現で的確に見事に言い抜いている。
イーユン・リーが描き出す人物の境遇は、基本的にみな「ひとり」である。孤独を望んだのではなく、自分ではどうしようもない大きな外の力によってそうあるほかなかった人々を描きながら、しかし彼女があたたかい言葉をかけて背中を押してやることはないし、「その後」に希望を持たせてやろうという過度な気遣いもない。
先に映画を観て心を打たれ、原作(を含む)短編集を読んでさらに魅力に引きこまれた。自分がこれほどに共感できるわけが、堀江氏の解説で一層、理解できた。強い確信を得ることができた。
それぞれの孤独からこぼれ落ちるばらばらな音が、ばらばらなまま鳴り響いて、しかもひとつの台詞を語っているような、しっとりした演劇的幕切れを引き寄せるのだ。
「孤独を望んだのではなく、自分ではどうしようもない大きな外の力によってそうあるほかなかった」人々。映画の中の父親の挫折や葛藤や・・・に感情移入した、我が身が重なったように、自分がそうだから心に沁みいる。
決して心を閉ざすのでなく、孤りを選んだのでもなく、「どうしようもなく」そうあらざるを得ない境遇に落ちたこと。運命であること。
けれども世の中は「ひとり」や「孤独」を排除し、「みんな仲良く」が求められる世界。多数が標準であり、それに合わせることが善とされる。「協力」であり「コミュニケーション能力」であり、その価値基準に合わないものはマイナスとみなされる。合わせない方が悪いのだと決め付けられ、抹殺される。
多数派でいるならば考えもしない、思いもつかないことだろうが、そうでない者には生きにくい社会。そんな、普段、視線が注がれることはない人にも人生の舞台があること。作者は直接にあたたかいことばをかけることはないが、読者に引き合わせて「あたたかい何か」を「流れ込」ませる。
「ちゅうごくで『修百世可同舟』(シウバイシークウトンジョウ)といいます」誰かと同じ舟で川をわたるためには、三百年祈らなくてはならない。
<たがいが会って話すには──長い年月の深い祈りが必ずあったんです。ここにわたしたちがたどり着くためにです>
「千年の祈り」
満足度:★★★★★
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