交響曲第一番

佐村河内 守(2007年刊 講談社)

2008/05/25読了、2008/05/31メモ

音を失った音楽家の半生

2007年刊講談社

幼少時より音楽の指導を受け、迷わずその道を進み続け、これから才能を花開かせようとする35歳で聴力を失った著者の半生を綴ったもの。

音楽に全てを捧げてきたのに、音を奪われた作曲家の無念、絶望感。同じ障害を抱える者には痛みの突き刺さる共感をもたらして読ませる。

音を失った音楽家、作曲家というと、ベートーベンやチェコの国民的音楽家スメタナを想起る。スメタナが発狂死したというように、音を失い、言葉を奪われた思いは筆舌に尽くせぬものがある。著者も二度、自殺を試みた、いずれも未遂に終わったその状況が生々しく振り返られている。「精神の破壊、発狂、そして廃人へ──」とあるように、見境がつかないほどに狂うか鬱になるか・・・をもたらす、言葉の断絶された疎外感は多かれ少なかれ「きこえない」障害を持つ者には共通するだろう。

自分の創った音楽を自分で聴くことができない人間が、自分の音楽を堪能している人間たちの中に身を置くことは、もはや耐えがたいことになっていたのです。


音楽を杖として、なんとか生きてはいました。しかし、絶望、虚無、悲しみ、不安といったそれぞれの感情、鳴りやまぬ重度上の耳鳴り、それを上回る耳鳴り発作・・・。

ついに私は発狂してしまいました!

・・・自分は無意識のうちに他人に危害を加えてしまうのではないか、という不安にさいなまれました。・・・発狂が鎮まると、再びあの恐怖にも似た不安感に襲われ、闇の中でがたがたとふるえ始めます。

苦痛の壮絶さは引用しきれぬほどだ。

ただ著者も

あらゆる病苦は、自らが陥ってみなければその本当のつらさを知り、理解することもありえないのだと骨身に染みて感じました。

と記しているように同じ障害を、悩みを持つ者同士では共感し合えても、そうでない一般の人には伝わりにくい。

例えば分かりやすい例でいうと、僕がマラソンを走る。マラソンも苦しい競技である。「マラソンの楽しさ」というと怪訝な顔をされても、「マラソンの苦しさ」を疑う人はいない。ランナーという同士は多いから、「あの苦しさがねえ」とか「35km以降の撃沈が・・・」というのは同士で簡単に共感できる。

でも、きこえない苦しみに比べればマラソンの苦しみは全くレベルの違う、トレーニング次第では克服できる、どこまでも自由意思によって本人の選んだ、いつ止めても降りてしまってもいいものだし、自分なりにコントロールできる楽と言えば非常に楽なもの。楽しいもの。

著者は単に聴力の喪失にとどまらず、被爆二世によるものか、立ち上がれない時間も多いほどのいくつもの病を他に抱えている。それでも、生きる希望を見いだし「音を喪くしたからこそ音楽しかなくなった」「闇にとどまりながら真実の音を追い求めてゆく」ことを決意するに至った。

一応の結末はあっても、決してハッピーエンドではない。著者にとってはどこまでも苦しい闘いがこの先にも待ち受けているだろう。それでも著者が語っているように、同じく苦しんでいる者には、苦しみ続けている姿しか励ましにならない。

本書を読んで、まさに著者の壮絶な闘いと勇気ある姿勢に力付けられた。

満足度:★★★★★

音を喪くしたからこそ音楽しかなくなってしまった私には、闇にとどまりながら真実の音を追い求めていくほかない。そう覚悟しているのです。


私の人生は闇に満ちています。

闇は、痛みと悲しみと狂気にあふれた、生きにくい「深淵の地」です。しかし、闇はその圧倒的な暗さゆえに、小さな光にすら敏感になれる唯一の地でもあるのです。



 

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