三四郎

夏目漱石(1956年刊 岩波書店・漱石全集第7巻)

2003.6.14読了 6.21メモ

繰り返したい再読

三四郎 (岩波文庫) (文庫)
三四郎

漱石を年に一度は読み返したいと思っている。ここ数年、『心』、『猫』、『門』、昨年の『坊つちやん』と読んできて今年は『三四郎』。数ヶ月かけて、少しずつでも読めればよいなと思っていたところ、肋骨の疲労骨折で動けない時間が突如、生まれる。こんなときこそ時間を有効に使いたいと、そしてまた再読を始めてみるや予想以上の面白さとで一気に読み終えることができた。

漱石の文章の硬質さが読んでいてとても心地いい。元々、好きな作家だというのに加え、この頃は年齢的にも硬派な内容を身体が欲するようにもなってきたのか、漱石の文体が骨の髄まで沁み込んでくるといっていいくらいに、日本語の美しさを感じることができる。

文章の心地よさに身をゆだねることができれば、当然、内容もじっくりと玩味できる。若い頃、読んだときには気付かなかったストーリーの面白さをも感じる。高校のとき、そして大学のときにそれぞれ一度読んだときとはまったく違う大きな満足感が味わえる。男女の機微というものを今では仔細に味わうことができるようになったことも愉快な気分にさせてくれる。

読んでいる途中で、再び最初からじっくり読み返したくなった、読み終えてすぐに冒頭に戻って読み返した程の面白さだった。

よく知られているように、『それから』、『門』と続く三部作の第一をなすもの。それぞれを再読してゆくと、なるほど三部作につながる種子がこの『三四郎』で播かれているのだなということが、三部作につながっているものが作品の随所にあらわれていることが納得できる。『それから』、『門』をすぐにでもまた手にとってみたい気持ちにもなる。3部作の第一作をまた戻って読んだ自分に気付く。

「漱石を年に一作は・・・」ではなく、今年はもう二、三読んでみたい。

青年の物語

いなかの高等学校を卒業して、東京の大学にやって来た二十三歳の三四郎が、新しい空気に触れ、これまでの自分の生活が現実生活に全く接触していなかったのだという思いを引き起こされる。廣田先生や野々宮さん、与次郎、美禰子、よし子・・・らと交わってゆく。そして、恋をする。そうした中で世界の幅と深みを知ってゆく。「熊本より東京は廣い。東京より日本は廣い。日本より......」「日本より頭の中が廣いでせう」という言葉に覚醒される。

誰にもある青年の成長の過程の一時期の心理描写が、僕自身にも大いなる共感を持って――ある意味では今にして「やっと」──読み取ることができた。

恋の物語

大きく捉えれば「青年の物語」であるけれど、一般的には恋愛を描いた作品としての印象が強い『三四郎』。もちろん、この作品が単純に恋愛物語というジャンルに片付けられるものでないとはいえ、やはり、淡い恋に揺れる男女の描かれ方がひときわ面白い。

「日本より頭の中が廣い」思いを持った一方で、けれども日々を生きる現実にあっては、あまりに現実的なものに「囚はれて」しまう。美禰子という女の存在に対して迷わされる。惑わされる。

「女に惚れた事があるか」と与次郎に問われて、即答できない三四郎の物語である。

美禰子との対面、初めての会話で三四郎をして「肉感的」、「ヴォラプチュアス」と言わせしめている。「官能に訴へている」。漱石の作品には珍しく、色艶のあるシーンで、美禰子の肉体の美しさを三四郎に語らせている。汽車の中で乗り合わせ、名古屋で一夜を過ごした女をひきずっている。「あなたは余つ程度度胸のない方ですね」と言われたこの女に出会って以後、女について、官能について三四郎は逡巡している。

一方で「手が触れる」か、「肩がぶつかる」かどうかさえ、もったいぶって書かれている。引越し作業で二人だけの時間が偶然、生まれる、美禰子と三四郎のプラトニックな恋の進行が、この作品の中では唯一、晴れ渡った澄んだ光景として印象に残る。

迷える二匹の羊

よし子に対しては「異性に近付いて得られぬ感情」を美禰子に強く抱いていることを三四郎も強く自覚している。美禰子、よし子に比べてさえも「女々しい」三四郎だが、それが大方の日本人男性でもある。

与次郎に言わせれば「年の行かない癖に姉さんじみた事をするのが好きな性質」の美禰子に三四郎は惚れている。それは三四郎が田舎から出てきた男だからこそ、初めて触れる都会的、進歩的なものに憧れる思いでもある。女々しいからこそ、多くの男がそうであるように、そうした女性に惹かれてしまう。

一方、美禰子は「あなたは索引の附いている人の心さえ中てて見様となさらない呑気な方だのに」と半分、本音をのぞかせながら、三四郎の度胸のないことを知ってあえてそれを愚弄するような行動に出る。三四郎を軽くあしらっているようなところがある。美禰子は決して意識して愚弄しているのではないけれども、結果として三四郎は自分があしらわれているように感じる。

"Pity's akin to love" をどう訳したものか、4人が談笑しているところに野々宮さんがあらわれる。恋を自覚し始めた三四郎の前にあらわれる野々宮さんが恋に波風をおこす、さざめきを呼ぶ存在として設定されている。そしてまた、この直後に菊人形の見物に出かけた折、「迷子」の英訳を美禰子が「迷へる子(ストレイシープ)」とつぶやく。美禰子と三四郎の二人が自分の心を見つけられない、あるいは見つけていてどう行動に出てよいものか迷っている、「迷子」の状態に陥ってお互いが苦しむ。

純な三四郎をあしらっているようでいて、実は美禰子の方も素直になりきれない。

度胸のない田舎の男と、素直になれない都会の女。恋を結実させられない物語がなんとも面白い。

漱石はこの作品で新しい女性、強い女性を描いたのだといわれているけれども、やはり、廣田先生に社会を語らせ、三四郎に世界を迷わせる、極めて男性的な小説だと思った。

満足度:★★★★★

我々は西洋の文藝を研究する者である。然し研究は何処迄も研究である。その文藝のもとに屈従するのとは根本的に相違がある。我々は西洋の文藝に囚はれんが為に、これを研究するのではない。囚はれたる心を解脱せしめんが為に、これを研究しているのである。此方便に合せざる文藝は如何なる威圧の下に強ひらるるとも学ぶ事を敢てせざるの自信と決心とを有して居る。

我々は此自信と決心とを有するの点に於て普通の人間とは異つている。文藝は技術でもない、事務でもない。より多く人生の根本義に触れた社会の原動力である。


 

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