山月記

中島敦(1980年刊 角川文庫)

2003.7.5読了 7.6メモ

誰しもの心にある弱さ、苦悩

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李陵同様に、人間の弱さを描いた作品。きっと誰の心にもある自尊心、虚栄心、功名心ゆえの心の相克、葛藤というものを読者に突き付けてくる。著者の作品が名作と評せられるのは、それが特別のことではなく、目を背けたいけれども本当は誰しもが持っている人間の弱さ、人間的苦悩を描いて普遍的だからだ。

あらすじ

今回、20数年ぶりに再読して大きく感動させられた。何度も読み返した。中学校の頃に戻ったつもりで、あらすじをまとめてみようという気にまでさせられた。以下、この名作を今さらながらに要約してみたもの。


俊才李徴は銭吏に甘んずることをよしとせず、詩家としての名を残そうとした。官を退き、人と交を絶って詩作に専心したが、一向に名は上がらず生活は苦しくなるばかりである。夢あきらめ、妻子のために節を曲げ、再び官吏に就くが、待っていたのは、はるか高位に進んだかつての同輩や、自分よりはるかに劣るものとみなしていた連中の下命を拝することであった。己の自尊心を強く傷つけられ、狂おしい焦燥に駆られ、李徴はついに山中で発狂し、虎に化してしまう。


翌年、かつてともに進士の第に登った友人、袁參一行が勅命でこの地を通り抜けようとしたときのこと。袁參は駅吏の言う人喰虎に襲われかけるが、叢からきこえるその声が友人、李徴のものであることに気付く。袁參は叢の中から姿を現さぬ、李徴の見えざる声としばし対談した。袁參が訊ねるに、李徴は訳の分からぬまま虎となって今日まできた。それでも一日のうち必ず数時間は人間の心に還るのだという。しかし、それも日ごとに短くなってゆき、今では自分が人間だったことさえ信じられなくなっている。人間でなくなってしまう前に、今なお覚えているかつての詩をどうか、伝録してもらいたい、そうしないことには死んでも死に切れないと袁參に嘆願する。


部下に命じて書き取らせた袁參は、それらの詩の中になるほど李徴の才能を認めるものがある一方で、一流の作品となるにはなお、欠ける点のあることを見抜く。李徴も、虎となった運命の思い当たる理由を、己のかつての臆病な自尊心と尊大な羞恥心とにあったろうことをみとめ、反省して嘆く。そして今も胸を焼く悲しみの日々を吐露して訴える。


辺りが明るくなろうとする頃、李徴は最後に、妻子の今後と、また、袁參が二度とこの道を通らぬようにと頼んで別れを告げる。

(注)「袁參」の「參」の字は本来、「にんべん」+「参」であるが、画面に表示できない外字なので、ここでは「參」に置き換えている。

境遇の差

まさに珠玉の作品。わずか十頁の分量であるが、全編、胸にしみこまないでいられない。李徴の嘆き同様、胸のやける思いにならないでいられない。時間にして十分で読める内容が、人生数十年を考えさせられる深遠さを有している。

初めて読んだのは中学時代の教科書だったろうか。当時は硬い文章であることしか印象に残らなかったけれど、今、実際に仕事をするようになり、同じく地方の一官吏としての立場に身を置くようになると、冒頭の一段落のわずか十五行から胸に強く沁み込んでくる。

官吏であれ会社員であれ、組織で働くかぎり、望む望まぬの意識の差はあっても誰しも出世や競争というものを避けて通れない。詩業を志すも夢破れ、再び職に戻ったとき、「かつての同輩はすでに遥か高位に進み、彼が昔、鈍物として歯牙にもかけなかったその連中の下命を拝さねばならぬ」ことに自尊心を傷つけられるのは何も李徴に限ったことではない。

人は、昔は同じ環境で学び遊んだ幼なじみや同級生とも、時を経るごとに互いの立場を変えてゆく。努力の結果や、もともとの実力や、あるいは運不運によってもたらされる境遇の差を知らされないでいられない。かつてを知る友人を羨み、今の自分を嘆かないと言い切れる人を僕は信じない。

この物語で李徴が虎に化してしまったように、おとぎ話や寓話で人間が動物に姿を変えるのは、一般的に転落、堕落を意味するものだろうけれど、僕は李徴がむしろ羨ましい。現状に甘んぜず、一度は詩業を志し、たとえその夢が破れたとしても、発狂して虎になる程の熱意を持った李徴を。

『草枕』の冒頭ではないが、「智」だけでは立ち回れない、誰もが「情」に流され、「意地」を抑えながらそれぞれの生を生きている。それが人間として生きてゆく上での宿命でもあるから。

友情の物語でもあり

それから、僕が李徴の立場であったとき、果たして誰か友人が袁參となってくれるだろうか? 李徴が袁參という友をもてたこと、そして叢の中からではあったが、友の前では獣と化してしまった自らの心情の全てを赤裸々に打ち明けることができた。そうした友をもてたことは幸せではなかったろうかと思う。

また逆に、僕が袁參として友人、李徴を慰められるだろうか?

そう考えるとき、昨年、死んでしまった友人のことを思わずにいられない。お互いに訳あって連絡が途絶えていた。今年こそ連絡しようと思っていた矢先の友人であった。死後、童話を遺していたことが家族を驚かせた。名を上げようとした李徴のような自尊心や羞恥心といったものではなく、人の生をみつめる限りないやさしさと愛情の物語であった。堂々たる体躯に恵まれ、およそ「童話」とは最も遠い世界にいるような友であった。彼のことは一番よく知っていたと思える僕でさえ、にわかには信じられないそうした彼の最期の心境を思うとき、どうしてもっと早くに連絡をとろうとしてやれなかったのか、今なお悔やんでも悔やみきれない。

普通、人は不遇に落ちた自分を、自分の弱さをすすんで明らかにはしないものだ。特にそれがかつて、自分と同じ時を過ごした友であればあるほど。人は幸せな自分を誇ろうとする。出世した自分、名誉を得た自分、家族に恵まれた自分・・・。いつか再会するのは、連絡を取るのは、「今のみじめな自分を脱してから」と思う。失意と挫折にあるとき、不遇にあってそれを嘆くことのできる、自分の弱さを吐くことのできる者は、むしろ幸せである。

その意味でこの『山月記』は、かつての友の前で慟哭することができた、そしてまた友もしのび泣いてくれた、妻子の将来を託すことができた、また、引き受けてやることのできた李徴と袁參の、友情の物語でもある。

原典を知るとまた愉し

角川文庫版の本書には、末尾に参考文として、『李陵』や『山月記』の素材となった中国古典(「李陵伝」、「人虎伝」他)が付されている。都留春雄氏によって訓読のほどこされたこれら原典は、無味乾燥でほとんど理解のできなかった高校時代の漢文の教科書と異なり、『山月記』の後に読むとこれほどに面白く読めるものであることに気付く。

『山月記』が原典「人虎伝」に忠実に拠っていることを知ることができる。また、他方、例えば李徴が虎に化してしまった理由は全く異なるように、「人虎伝」にないものを『山月記』の主要モチーフとしていることにも気付くことができる。そして、まさにその点においてこそ『山月記』が名作として何度読んでも飽きない、僕らを魅了する作品になっていることをあらためて知ることができて興味深い。

もうひとつ、『山月記』は、例えば

「時に、残月、光冷ややかに、白露は地に滋く、樹間を渡る冷風はすでに暁の近きを告げていた。」

といった切れ味鋭い文章のリズムや、山中を舞台に設定している点が大岡昇平の『野火』を思わせた。そういう風に感じた人はいなかったろうか。

羊の本棚 『野火』

どうすればいいのだ。己の空費された過去は? 己は堪らなくなる。そういうとき、己は、向こうの山の頂の巌に上り、空谷に向かって吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、かしこで月に向かって吼えた。誰かにこの苦しみが分かってもらえないかと。しかし、獣どもは己の声を聞いて、ただ、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持ちを分かってくれる者はない。ちょうど、人間だったころ、己の傷つきやすい内心を誰も理解してくれなかったように。己の毛皮の濡れたのは、夜露のためばかりではない。

満足度:★★★★★


 

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