李陵

中島 敦(1994年刊 岩波文庫)

2002.5.22読了 6.10メモ

研修先で

岩波文庫

業務研修時に持参して宿泊棟で夜読んだもの。他に雑念のない、思索にうってつけのセミナーパークの環境が好きだ。普段と違った空気の中にいる時ほど、読書ははかどる。

中島敦の作品の評価が高いことは方々で目にしながらも、読む機会を得なかった。というより、読もうとする意思をもてなかった。いい時に読めた。実に読み応えのあるものだった。漢籍の豊富な著者による読みにくい小説、という先入観を持ち続けていたが、今読んでみるとそうでもない。漱石や鴎外ほどのものではない。受験知識として作者名と作品名とを結び付けることはできても、実際にその内容を知らないでいること、感動を味わわないままでいることは悲しい。この国のすばらしい先人の業績は実際に読んで味わわなければ。心への残り方が違う。

心の相克

本作品は、境遇の変化に際して己の身の施し方を問う物語である。

時は中国、漢の武帝時代。武将・李陵は武帝の期待を一身に背負って、北方を脅かす匈奴征伐に向かう。李陵は当代の名将として善戦を続けるが、力尽き、匈奴側の捕虜となってしまう。捕虜としてとらえられてしばらくの李陵は、隙あらば敵将・単于の首を取り、晴れて漢に戻るつもりでいるのだが、やがて時の経過とともに漢への忠誠も次第に薄れてゆく。それに気付いた李陵は、漢人としての誇り、矜持は誰よりも強いと疑っていなかったはずの自分の心の変化に驚く。一方で、かつての友人・蘇武は自分と同じ境遇にいながらも漢節を保持し続ける牧羊者として風雪貧苦を耐え忍んでいる。

自らの変化の過程と僚友の姿とを比して、苦しんでゆく李陵の心の相克が描き出されている。

この作品がこれほど有名で評価を得ている理由がよく分かる。

こうした状況は誰にでも起こり得るものだ。李陵のとった行為は決して責められるものではない。誰もが当然に選ぶべき道で、蘇武の生き方の方がまれだからである。

これがこの小説の醍醐味、真骨頂である。司馬遷をも登場させて、李陵の勇敢さを述べながら、蘇武という一人の男を出現させることで李陵を苦しめる。それはそのまま、李陵になりきって読み進めている読者を苦しめる手法となっている。

この作品のねらいが、いつまでも漢を裏切らずに耐え忍ぶ生き方をまげなかった蘇武を単純に称えるものでないことは明白である。蘇武の生き方を選ぶ、耐えることのできる人間はまずいない。それは「生き延びる」という人間の本能とは対極の位置にある。李陵と同じ境遇に置かれたならば人は、誰しも李陵同様の考えになるはずで、しかし、それが人間の弱さ、醜さでもあるのだということを語っている。読んでいてうならされる、心を揺さぶられる。おそらくどんな哲学書以上に、人の生き方を考えさせてくれる。

司馬遷

また司馬遷についても、強烈な筆写で述べられている。宮刑にあった後に恥辱と憤怒に狂いながらも、修史という仕事に立ち向かった司馬遷に、著者は自分をなぞらえていなかったろうか。本書の支持される理由は、司馬遷を述べた部分にこそあるという見方もできる。

何をもって人が生きることをよしとするか、中島敦はこの作品で、李陵、蘇武、司馬遷という3人の男を登場させて示している。最後に救われたのは蘇武だが、それぞれに生きる道を全うしているのであって、どれが正しいというものではない。この世に生きる者として、読者はどの道を選ぶのか。真に生きるには、どの道も苦しいのだという問いを与えているようである。

満足度:★★★★★

李陵の心はさすがに動揺した。再び漢に戻れようと戻れまいと蘇武の偉大さに変わりは無く、従って陵の心の笞(しもと)たるに変わりはないに違いないが、しかし、天は見ていたのだたという考えが李陵をいたく打った。見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。彼は粛然として懼れた。今でも己の過去を決して非なりとは思わないけれども、なおここに蘇武という男があって、無理ではなかったはずの己の過去をも恥ずかしく思わせる事を堂々とやってのけ、しかも、その跡が今や天下に顕彰されることになったという事実は、何としても李陵にはこたえた。胸をかきむしられるような女々しい気持ちが羨望ではないかと、李陵は極度に惧れた。


 

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