公務員は障害者に席を譲れ

橘 玲(2009年幻冬舎文庫)

2011/07/16読了、2011/08/30メモ

幸福な生き方

前回、エントリした「雨の降る日曜は幸福について考えよう」(文庫本版は「知的幸福の技術」に改題)中に書き下ろされた後半の一節。著者が1年前に始めたブログでも全文が読めるようになっている。

公務員は障害者に席を譲れ | 橘玲 公式サイト

ちなみに著者は昨年8月からブログを開設して雑誌への掲載記事等もオープンするようになったが、まず真っ先に掲載したのが本論なのだと述べている。


最初に掲載する「公務員は障害者に席を譲れ」は、いわれなき差別に苦しむ多くのひとびとを救済し、国民の幸福と日本国の厚生を確実に向上させ、国会の議決ですぐに実行できるきわめて有効かつ現実的な改革案だと考えますが、2004年9月刊行の『雨の降る日曜は幸福について考えよう』(幻冬舎)に発表して以来、現在に至るまで一顧だにされません。


それが今回、オープンソースにて広く世に問うことにした理由です。


リバタリアニズム(自由原理主義)について

当事者である僕自身、もちろん同意する提案だ。

公務員というと安定しているとか給与だとか身分待遇に注目が集まるけれど、もっと広く社会を構成する部門でみたとき、これまた僕自身の仕事に関して述べると、例えばGDP統計の中にも政府サービス生産者というのがあって、社会共通の目的のための活動だとされている。但し、作り上げるのに他の産業部門とは異なるアプローチをしているのは、「非商品販売」という聞き慣れない、ここでしか使われない概念もあるように、提供されるサービスが市場価格では販売されておらず、されていても多くは価格が生産コストをカバーしていない点に公務(教育、防衛、警察、消防、社会保障その他も含む・・・)の一番の特色がある(と僕は思っている)。

コスト(人件費等)をかければかけるほど統計上のGDPは膨らむことになるのだが、他の産業と違い、コスト感覚を問われることの薄いのがこの部門の特色である。それゆえに健常者と比べればどうしても効率性に遅れる障害者にこそ適職な対象である、という論は分かりやすい。

「競争」のできる分野でコストパフォーマンスや効率性を実現できる健常者はまず産業(民間)部門で存分にその能力を発揮できるし、持てる力があるのなら、その方が望ましい。それができない者に、競争に参加できない者に公務という場を残しておく、譲るという考えは決して暴論ではない。僕自身、頑張っても太刀打ちできない、土俵が違って話にならない自分を痛感させられている。

障害者内差別

もう一点は著者には思いもつかないことだろうが、先の例でいえば「片腕のない」くらいならまだ障害としては軽い方であり、仕事はできて当然だろうということ。特に公務(デスクワークや窓口業務)には幸い、重いものを両手で持ち運ぶといった現場的な用務はほとんどなく、腕や足に障害があっても(効率の落ちることも多少はあるかもしれないが)仕事そのものの本質には何ら影響ない(住民票の発行に問題はないだろう)。

何度も述べてきているけれど、しかし、耳(聴覚障害)は仕事面では致命的である。両手でモノが持てるとか歩行ができるとかよりも、対面で相談に乗ったり電話で要望を受け止めたり、会議に出席してアイデアを提案したり、そもそも全ては会話(指示、説明、質問、確認)から始まる社会生活のできないことの方が余程、深刻である。かつまた、そのことで劣等感や疎外感や絶望感にさいなまれて心を病む心理的な二次障害も聴覚障害には大きい。

ケガをして一時的に手が使えなかったとか松葉杖のお世話になったという経験は普通の人にも多いだろう。それでもできる仕事は多いだろうが、耳がきこえなくなってできる仕事はまずない。

実際に公務の場においても圧倒的なのは、仕事への影響が軽微な肢体障害である。僕自身が見ても、その障害が業務に困難をもたらすものでないのなら、あえて障害枠で入る必要はないのではないか、公務でなくとも民間でも充分に活躍できるのではないかと常々、思う。僕が走るレースで何もハンデをもらわないように。

障害だから何もかも一律にハンデを与えるのもおかしい。著者の提案を一歩進めて、障害者といってもその内容や程度に大きな差があり、採用されやすいのは(雇用主側に好まれるのは)障害の軽い、できる戦力である。試験を経るなら競争ということになろうし、「競争」であれば障害が重いほど不利なのは当然だ。そうではなく、「障害枠」というなら、むしろ障害の重い方からこそ採用してほしいし、それを公務が率先することはできるのではないか。

著者が遭遇したように、どうしても目に見える障害の方がこうして有利であり、社会(健常者)からの理解も得やすい、分かりやすい。有利だから採用されて仕事をしているのが著者の目に付いたのだともいえる。本当に救うべきは目に見えない、採用されずに困っている障害者の方だ。

「公務」というパイをまず条件の恵まれた健常者が占める(独占する)。次に、ごく限られた障害枠というスペースを、やはり恵まれた条件の障害者から椅子を取ってゆく。この現実を逆転させていい。GDPの中でも相当なウェイトを占める公務、道を譲る考えがあったら世界もだいぶ変わるのではないか。

私はふと疑問に思った。世の中にこれほど障害者に適した職場がありながら、なぜその場所を健常者が独占しているのだろう?

満足度:★★★


 

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