難聴者を主人公とする小説の難しさ、あるいは限界

軽・中度難聴

「レインツリーの国」を読んでいて感じたことを余力のある範囲で以下、何度かに分けて──。

まず一番に思ったのは、今回の小説の主旨といえばそれまでだが、障害レベルが非常に軽度で僕からみれば充分に羨ましいな、ということ。ヘッドホンで音楽がきけて、会話にも特に困らない。作者も相当に障害に対する勉強や実際の難聴者への取材を重ねたろうことのよく分かる、いい出来映えなのだけれど、それでも少々、不自然さが残るのは男女二人の会話があまりにもスムーズにできている、特に障害ゆえの支障がみられない、ということ。

彼女は会社に障害枠で採用されたような記述になっている、そうすると「障害福祉」の対象となるレベルでは最も軽い聴覚障害6級ということになろうはずなのだけれど、他国と比べて最低基準の非常に厳しい日本の障害認定、最も低い6級レベルでも、もっとはっきりと会話に支障がありそうな気がする(これは本人の、また、相手にもよる個人差が大きいが)。内容からすると、僕自身の経験的にも6級に届かない(制度としての障害とされない)、本当の軽度難聴者のレベルだろうと思う。それはそれで別にいい、小説の成立を妨げるものではないのだが──

会話のためには静かな場所を好むとか、正面を真っ直ぐに見据えて口の形を読み取る、あるいは戸外の雑踏では会話ができない、映画は吹き替えでなく字幕の付く洋画を譲らない、とかの説明は一応、用意されているのだが、いざ二人の会話が始まるとテンポよく不自由なく流れる。彼の(=著者得意の)大阪弁もストレートに彼女に届く。そもそも早口でまくし立てる大阪弁は、難聴者にはかなり聞き取りに苦労するのが普通ではないか? このあたり、会話あってこその小説、という意味で、会話を抜きにしては小説として成り立たない、会話ができるレベルの難聴者である必要があった、どこまでも小説としての都合を優先せざるをえなかったろう。

主人公にも「コミュニケーション障害」と語らせている難聴という障害の特質は、やはり小説の中では体現しにくい、本来は文字に置き換えられないもので、このあたりが限界なのかな、と感じられた。

例えば小説の手法としては外国人の発言をフォントを変えたり斜体にしたり、古くは「四つの終止符」でも聾青年のたどたどしいことばをカタカナにして表現したり、の工夫は多い。村上春樹の初期の作品にはよくイラストのような絵文字も出ていたように思う、そんな延長でいえば、僕としては、難聴者の立場できこえる相手の言葉というのは、小説の頁の上でいうと、一度、書いた文章を消しゴムで消したようなもの。あるいは消しゴムがない代わりにぐちゃぐちゃっと上塗りで塗りつぶされたもの。話し方や声質、イントネーションに差があるように、筆跡にも読みにくいものがある、そのクセのある文字の消されずに残った、痕跡から見えるわずかな一部分を必死に拾って前後の文脈から類推するようなもの。

どうしても製本された頁上で表現できるものではないが、僕としてはひときわ読みにくい(クセの強い)手書きの文字をかすれさせたような、それをカギ括弧(「 」)に挟んでやるくらいの試みでやっと難聴者のききとりの苦労を理解してもらえるのではないかと思う。電子書籍が主流になりそうな時代にテキストで配信できないそんなイレギュラーな方法は人気作家の著者としても考えにくかったろうけれど、でもそれこそが世間一般の普通の枠におさまらない、イレギュラーな立場の身というものだ。

あるいは──変なアイデアばかり浮かぶが──試験勉強用に赤いセロハンシートをかぶせると答えの赤文字部分だけが見えなくなる、あれと同じ要領で「微妙に」(=絶妙に?)見えにくくする仕掛けを作ってやるというのもひとつの方法だ。どこまでも視覚による代替措置で聴覚のそれを実感できるものではないけれど。

彼女の心理面の吐露には大いに共感できる一方で、メールやネットもそうだけれど、あくまでも「文字」の上でなら会話も成立しているけれど現実には── というのが、難聴者の切実な悩みだ。


 

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